様々な紆余曲折を経て、何とか開幕にこぎつけた東京オリンピック。
開会式は実況がマッシミリアーノさんで、聖火の最終ランナーが羽生君かもしれない、ということで伊ユロスポのライストで見ていました。
感想を一言でまとめるなら・・・
いや・・・やはり一言でまとめるのは無理なので、ちびまる子ちゃんに代弁してもらいましょう。
こんな感じ
この何とも言えない鑑後感・・・以前どこかで・・・と思い出したのが、何年も前にミラノ・スカラ座で見たバレエ公演「ジゼル」の初日です。
クラシックバレエの王道中の王道、ジゼルのあらすじは皆さんもご存じでしょう。
1幕、純朴な村娘ジゼルは、身分を隠して彼女に近づいた貴族の青年アルブレヒトと恋に落ちますが、彼の素性と許嫁の存在を知り、ショックの余り半狂乱になり息絶えます。
2幕、ジゼルは恋人に裏切られて亡くなった乙女達の精霊ウィリーの一人になります。
ウィリー達は森に迷い込んだ男達を死ぬまで踊らせて殺してしまうのですが、アルブレヒトを今も愛するジゼルはウィリーの女王ミルタに命乞いし、最終的に彼を救うのです。
幻想的でロマンチックな世界観とクラシックで優美な振付が特徴的な、数あるバレエ作品の中でも個人的にとても好きな演目の一つです。
しかし
このスカラ座版ジゼルは前衛的な演出で、ジゼルは知能に少し障害のある頭の禿げた女の子(それでいつも頭にターバンを巻いている)という設定でした。そして恋するアルブレヒトに婚約者がいることを知り、発狂して1幕終了。
ジゼルの見せ場と言えば、2幕のウィリーの踊りです。
暗い森の中、透けた白い衣装をまとって舞うウィリー達の群舞はこの世のものとは思われないほど幻想的で美しく、いつもとても楽しみにしている場面なのですが・・・
このジゼルでは2幕はジゼルが入院した精神病院という設定でした。
ウィリーは入院患者、女王ミルタは監視役のシスター。
こういうシーンを期待していたのに
パジャマ姿の入院患者達・・・
せめて振付だけでも従来通りなら衣装がパジャマでもまだ許せたのですが・・・
パントマイムのような謎のコンテンポラリーダンス😭(貞子?ゾンビ???)
「白鳥の湖」はバックグラウンドにチャイコフスキーの壮大で素晴らしい音楽がありますので、振付や演出がイマイチでもそれなりに耳で楽しめますが、「ジゼル」の場合、アドルフ・アダンの音楽自体はそれほど名曲、という訳ではないので、視覚的に楽しめないと辛い・・・長い・・・
そして極めつけが夜明けと共にウィリー達は消え、アルブレヒトを必死で守ったジゼルも消え、朝が訪れる、という感動的なはずのラストシーン。
ウィリーならぬ狂った女達に服をはぎ取られ、一糸まとわぬ裸体となったアルブレヒトが舞台の中央に倒れて幕😱(結局、彼が助かったのかどうかは分からず)
あまりにもショッキングで期待外れな内容に、私は「目が点」状態で茫然としていましたが、幕が完全に下りる前から場内は凄まじいブーイングで騒然となりました。
やっぱり・・・😅
カーテンコールでは、出演者と指揮者には拍手が送られましたが、振付師と演出家にはブーイングの嵐でしたので、スカラ座の観客にはこの過激な演出が受け入れられなかったのでしょう。
極端な比較かもしれませんが、東京オリンピック開幕式の鑑後感は、このジゼルを見終わった後のショックと失望に似ていました(ドローンは素晴らしかったですが)。
懐石料理を期待していたのに、謎の無国籍料理を出されたような。
後で知りましたが、この時の演出家、マッツ・エックは古典を新解釈することで有名な人だそうです。「眠りの森の美女」ではオーロラが薬物中毒で男を渡り歩く解釈だったとか。
そしてスカラ座では絶不評でしたが、客層の異なる別のコンテクストではこのような大胆な解釈が逆に評価されることもあるのです(私はあのジゼルはもう二度と見たくありませんが)。
しかし伝統と格調を重んじるスカラ座の観客には評価されませんでした。
要するに彼の演出は、当時のスカラ座というコンテクストには合っていなかったのです。
勿論、スカラ座は常に保守的で古典的な演出の演目ばかりを上演している訳ではありません。
ヴェルディやプッチーニやもっと古いグルックやモンテヴェルディのオペラを革新的で斬新な解釈で現代風にアレンジし、絶賛された例を幾つも見たことがありますし、前衛作曲家の作品も上演します。
ただこれらの成功例を分析すると幾つかの共通点があります。
時代や人物の設定を変えたり、デジタル要素やコンテンポラリー要素を取り入れたり、ミニマリズムだったり、解釈の方法は様々でも、根底に明確なコンセプトがあり、作品全体にメッセージ性と統一感があり、その演出に説得力を与えていること。
そしてコンテクストに合っているということ。
すなわち、コンテンポラリーでもミニマリズムでも、スカラ座というコンテクストに相応しい格調と品位があるということ。
残念ながら東京オリンピックの開会式からはコンセプトもメッセージ性も説得力も私には全く感じられませんでした。全体に繫がりや統一感もなく、有り合わせのものを切り貼りした、という印象でした。
そして、コンテクストに合っていない感。
おそらく別のコンテクストで披露されたなら・・・例えば実験的な芝居を見せる小劇場とかバラエティ番組とか仮装大賞とか・・・それなりに楽しめる演目だったのかもしれません。
しかし、余りにも内輪受け感、小ネタ感が強過ぎて、半世紀に一度あるかどうかの自国開催のオリンピックで、世界に向けて発信すべき内容だっただろうかと思うのです。
何よりも、日本という国のアイデンティティが見えませんでした。
日本には世界に誇る素晴らしい伝統と文化があり、五輪開会式はそうした日本の魅力を全世界にアピールする千載一遇のチャンスだったのに🤦♀️・・・
このオリンピックのコンセプト、巡りに巡って現在は「ダイバーシティ&インクルージョン」(多様性と調和)だそうです。
おそらく「多様性」を強調するためのイマジンであり、最終ランナーの大阪なおみさん抜擢だったと推測しますが、この開会式から「多様性」と「調和」のメッセージが伝わってきたかと問われれば、私は「ノー」だと思います。
当初の理念「復興五輪」を忘れていないことをアピールするために引っ張り出してきた東北の子供達もそうですが、全てが付け焼刃の取って付けた感・・・
思えば森元会長の女性蔑視発言に始まり、過去現在の差別発言または差別行為が原因で、これまでに5人もの人間が辞任または解任されています。
クリエイティブチームは女性タレントの容姿を侮辱する演出案が露呈して辞任した佐々木宏氏が仲間内で声を掛け合ってメンバーを集めたそうですから、このチーム自体(残った人達も)差別や人権に対する意識が低いのではないでしょうか。
そして、そのようなチームに、上っ面だけでない真の「多様性」と「調和」を表現出来る訳がないと私は思うのです。
コロナ禍が起こる前の開会式演出チームの総括は野村萬斎さんでした。
彼の掲げたコンセプトは「鎮魂と再生」
萬斎さんは一体どのような開会式を思い描いていたのか
それを見られなかったのが残念でなりません。
☆おまけ
開会式ですが、マッシさんのプロ意識の高さと知識の深さがよく分かる実況でした。
挙げたらキリがないので特に驚いたエピソードを2つだけ。
1)大工パフォーマンスが始まったら、いきなり江戸時代の鳶職人の説明を始めた😲
2)天皇陛下の開会宣言で「祝い」という言葉を使わなかった、と即座に指摘(マッシさん、日本語が分かるの???)
最終ランナー、マッシさんは最後の最後まで羽生君であって欲しいと願っていたようです。
東北の子供達の時、「他の候補者は既に全員登場しているから、残る候補は2人だけ、フィギュアスケーターの男子かテニスプレーヤーの女子か」と言っていました。
結果、なおみちゃんでマッシさんは明らかに落胆していましたが、「コンセプトが多様性だから彼女が相応しかったのかもしれない」と最後は納得していました。
こちらは開会数時間前に発信された動画
We are ready for the opening ceremony of the Olympic Games with the hope that the last torchbearer will be the one desired.
Waiting for Yuzuru Hanyu…#Tokyo2020 @DiscoveryItalia @Eurosport_IT pic.twitter.com/M3kEMIJHCJ
— Massimiliano Ambesi (@max_ambesi) July 22, 2021
好きな選手は?「羽生結弦」
オリンピックで記憶に残っているのは?「SEIMEI」
と相変わらずユヅル愛を炸裂させ、「最終ランナーが羽生結弦であることを願っている」
とツイートしていますが、ここにサッカージャーナリストのアレックス・シルヴェストリさんが応戦していました。
羽生結弦に違いない・・・僕はそう信じている!彼の笑顔は東京の夜空を明るく照らすだろう。偉大なチャンピオンで偉大な男性だ。その心と同じぐらい広大な才能を持った青年だ。
羽生結弦!