横浜に降臨したファントム

スターズ・オン・アイス大阪公演初演はParaviの配信で見ていました。

暗いリンクにファントムの白とブルーの衣装が浮かび上がった時、この場にいる観客は何と幸運なのだろうと思いました。

オペラ座の怪人は個人的に大好きなプログラムです。
ソチ金メダルの後、羽生君がどうしてもこの楽曲で滑りたいと切望したプログラム。
初めてシェイ=リーン・ボーンと組んだプログラム。
そして3本目の4回転ジャンプを後半に組み込むという非常に野心的な意図で誕生したプログラム。

夏の公開練習でプログラムの断片が披露された時から、楽曲と編曲の素晴らしさと振付の美しさに心を奪われました。そして激しく、悲しく、刹那的なファントムのキャラクターは羽生君にぴったりで、きっとロミジュリのようなハマりプロになるだろうと思いました(敢えて、難癖つけるとすれば、醜く恐ろしい外観という設定の怪人(エリック)には羽生君は美し過ぎます。だってあんな美しいファントムが現れたらクリスティーナは迷わずラウルではなく、ファントムの元に走りますよね)。だから試合で全編を見られるのが楽しみでなりませんでした。

しかし、初戦のはずだったフィンランド杯を腰痛で欠場することが発表され、この不穏なニュースは試練の連続となるこの波瀾万丈のシーズンを暗示しているようでした。

そしてまだ万全ではないコンディションで臨んだ中国杯の6分間練習であの悪夢のような衝突事故が起こりました。

この時、私はユロスポチャンネルで試合を見ていましたが、現地で解説しているRai Sportチャンネルのマンマ達と違って、ユロスポはイタリアで映像を見ながらの実況解説で、衝突が起こった時、ちょうどコマーシャルが流れていました。

コマーシャルが終わると、リンクから選手達の姿が消えていました。何が起こったのか見ていなかったマッシさんとアンジェロさんは、氷に何か問題があって、整備するために選手を退場させたのだろうと推測していました。視聴者である私も、数分間のCMの間にあのような恐ろしい事故が起こったとは夢にも思わず、何かリンクのハプニングだろうと思っていました。しかし、いつになっても6分間練習は再開されず、その内に、チャットで繋がっていたユヅリーテの一人が、事故が起こり、ユヅが血を流しているとツイッターが騒然となっていることを教えてくれました。私は「どういうこと???」と顔面蒼白になり、ネットで情報を検索し始めました。マッシさんも日本にいる情報提供者から「羽生と別の選手が衝突事故を起した」という情報を得たようでした。

そして6分間練習が再開され、頭に包帯を巻いた羽生君が画面に映し出された時、私の心臓はショックで止まりそうでした。ふらつきながら懸命にジャンプを跳ぼうとする彼を見ながら「無茶よ・・・誰か彼を止めて!」と心の中で繰り返していました。この状況で競技を続けるなど正気の沙汰とは思えませんでした・・・

実況解説のお二人も同じ気持ちであることが、困惑を隠しきれない彼らの会話から伝わってきました。

そしてあの演技。
転んでも転んでも立ち上がってジャンプを跳び続ける彼の姿に涙が止まりませんでした。

この時のユロスポ解説

いつもイタリア実況解説の貴重な動画を提供して下さるエレナさんは、この中国杯のファントム落ちです。絶望のどん底にあった彼女は、この演技に衝撃を受けて羽生君の大ファンになり、彼の演技と生き方に希望と勇気を貰い、人生が変わったそうです。

彼女の体験を綴ったこのエッセイも感動的です。

そして、殆ど練習が出来ないまま満身創痍で強行出場した次戦のNHK杯で4位になり、小数点の差で最後の切符を掴み取ったファイナルは驚異的な演技で圧勝でした。

その時のユロスポ実況がこちら

マッシさんの名言「惑星ハニュ-にようこそ!!住人は一人、彼だ!」を実況で最初に聞いたのはこの試合でした。

完全復活に見えたファイナルでしたが、実はこの時、既に腹部に異常を感じていたんですよね。
圧勝だった全日本の後、尿膜管遺残症のために手術を受けることが発表されました。

手術以降、全く情報がない羽生君の安否を心配するユヅリーテ達の会話がこちら

練習再開後、またすぐに足首を捻挫。万全からは程遠い状態で出場した世界選手権は僅差で銀メダルでした。開腹手術から3か月後に世界選手権に出場して銀メダルです。他の人なら欠場していたでしょう。

その数週間後、腹部の傷口が炎症を起こしている状態で国別対抗戦にも出場。
この時のファントムも圧巻の演技でした。

しかし、当初予定していた後半に4Tのコンビネーションを組み込む構成は、怪我や手術に阻まれて結局実現することが出来ず、おそらく彼の中では未完で終わったプログラムでした。

オペラ座の怪人は翌シーズンに持ち越されず、その後、アイスショーやエキシビションで再演されることもありませんでしたから、国別対抗戦の演技で実質見納めとなりました。

私にとっては楽曲も振付もキャラクターも大好きなプログラムにも拘わらず、生で観ることが叶わなかったプログラムでした。

羽生君の現役時代、シーズンに一度はヨーロッパの試合に出場してくれていましたから、ソチ五輪の翌シーズンからはコロナ禍以降のプログラム、天と地と、レミエン、ロンカプ以外は一度は現地で観れていました。

ショパンとSEIMEIはバルセロナ、プリンスとホープ&レガシーはマルセイユとヘルシンキ、オトナルとオリジンはモスクワとトリノ・・・

GIFTでのファントムは嬉しいサプライズでした。しかもプロジェクションマッピングの迫力ある映像と融合された壮大な芸術作品に生まれ変わっていました。

SOI大阪公演初日の配信で「オペラ座の怪人」を見た時、私の心はざわつきました。横浜公演の6、7日のチケットを買っていた友人から7日の方が行けなくなったからと、チケットを譲ってもらっていたからです。

7日は何を滑ってくれるんだろう?

大阪公演は2日が阿修羅ちゃん、3日目があの夏へ、と毎日違うプログラムが続きましたので、これは横浜の千秋楽まで日替わりに毎回違うプログラムを滑るのかな?と思いました。

しかし奥州公演初日の配信で再びオペラ座を見た時、私の心は揺れ始めました。
ということは横浜も初日はオペラ座の怪人なの?
私の持っているチケットは2日目の7日。

阿修羅ちゃんも素敵なプロで、勿論見たいですが、私の中で2014-2015年シーズンに見逃した生ファントムを見たいという気持ちが膨れ上がっていきました。当時、バルセロナのファイナルを見に行かなかったことを随分後悔しましたから。
しかも当日引換券をまだ販売しているじゃないですか!!!
6日が暇なら迷うことなく、速攻でチケットを購入していましたが、既に予定が入っていましたので随分悩みました。何度チケット購入ページにアクセスしてS席がまだ残っていることを確認したか。

でも・・・やはり・・・どうしても生ファントムを見たくて、迷いに迷った末、予定を何とか動かして、前日にチケットを購入しました。

そして行って良かった!

本当に言葉では言い表せないくらい感動しました。

実を言えば、オープニング前、会場のライトが消え、暗がりの中、アイスリンクに羽生君が出てきた時点で既に泣きそうでした。

生の羽生君だ!💕
画面越しじゃない🥹・・・
私の目の前で動いている!!😭

トリノ以来の生ユヅです。
競技会に出場しなくなって、アイスショーは今のところ日本国内のみ、しかも宝くじ並みの当選率。そもそもアイスショーのある時期に帰国出来ない・・・

ヨーロッパ公演でも企画してくれない限り、彼の演技を生で見るのはもう無理だと思っていました。
しかしリンクに出てくる羽生君を見ただけで涙が出そうになるなんて、どんだけ生ユヅに飢えていたのか・・・

世界トップクラスのスケーターを集めたショーだけあって、パフォーマンスのレベルが高く、見ごたえがありました。公演時間も長過ぎずちょうど良かったと思います。特にジェイソン・ブラウンとさっとんの演技が素晴らしかったです。山本草太君のポエタも良かった!

そして待ちに待った羽生結弦のオペラ座の怪人です。

彼がリンクに登場し、名前がコールされると、これまでの数倍の歓声が湧き起こりました。
スタート位置に着くと、エッジでカンカンと氷を踏み鳴らし、もの凄く気合が入っているのが伝わってきました。
怪人のボーカルと共にアッという間にオペラ座の怪人の世界に引き込まれます。
見る者を一瞬で自分の世界に引きずりこむ彼だけの磁力、彼だけの魔法。
流れるようなスケーティング、激しく、悲しく、そして息を呑むほど美しいステップシークエンス。

その後に4T-3Tのコンボを跳ぶことを知っていますから、試合のようにドキドキしました。
2014-2015年シーズンには入れることがついに叶わなかった後半の4トゥループ、美しく決まりますが、セカンドジャンプがダブルになりました。その瞬間、リカバリー来るかー!と思ったら、案の定やってくれました。

素晴らしいクオリティの3A-3T!

しかも呆気に取られるほど余裕がありました。
鳥肌が立ち、身体が震え、涙が溢れました。
これぞ羽生結弦

アイスショーでリカバリーですよ!
普通ではあり得ない!
どんだけ負けず嫌いなのか!

そして、過酷なスケジュールで疲労も相当貯まっているはずなのに、何でもないことのようにセカンドに3Tを付けられるコントロール能力。ファーストジャンプの着氷が完璧でなければ、あれほど高さのある美しい3Tを付けることは出来ません。

(回転しながら降りるのではなく)空中で完全に回転し切ってから降りてくるからこそ、左足をしっかり引き、余裕を持ってセカンドトゥループのトゥを突くことが出来るのです。
見たか、これぞ教本通りの正しい技術、羽生結弦の至高の技術だと叫びたくなるようなジャンプ。

次は3A-eu-3S

これほど優雅に自然にオイラーを実施出来るのも羽生君だけです。
他の選手のオイラーによくありがちな「どっこいしょ」感が全くない。そして高さのある完璧な3S。

3Lo、最後のルッツも完璧でした。
ジャンプの回転軸の細さ、回転の速さ!何て美しいジャンプでしょう!
間違いなく、今の羽生結弦はあらゆる観点において現役時代より数段上手くなっているのです。

そしてクライマックスのイナバウアーと圧巻のコレオシークエンス、スピン。
凄まじい気迫、迸る激情、ファントムの苦しみと悲しみ、剥き出しの魂・・・

競技時代に彼が味わった苦悩やフラストレーションが、ファントムの苦悩と重なりました。採点の理不尽、正当に評価されないことに苦しみ続けた体験が、彼のファントムに更なる深みとリアリティを与えているようで、もう表現力云々のレベルではない、ファントムが乗り移ったような凄まじい演技に圧倒されました。

当然のことながら、演技が終わると割れんばかりの歓声とスタンディングオーベーション。
私の周りはスタンディングオーベーションをする人があまりいなかったのですが、彼の演技が終わるや否や全員立ち上がって拍手をしていました。

感動で全身が震え、帰りの電車の中でもまだ夢の中にいるようでした。
そう、こういう感覚を与えてくれるのは羽生結弦だけなのです。
アイスショーは全体的にレベルが高く、魅力的な演技を披露した上手いスケーターは他にも大勢いました。
しかし、この没入感、鳥肌が立ち、全身が打ち震え、魂が揺さぶられるような感覚を私に味合わせてくれるスケーターは彼だけです。

このオペラ座の再演で、彼は2014-2015年シーズンの忘れ物を取りにきたのかもしれません。
怪我や病気が重なり、後半の4トゥループをついに実現出来なかったプログラム。

8年後の2023年、大阪で、奥州で、横浜で、4トゥループのコンビネーションを完璧に決めてみせました。

私にとっても、2014-2015年シーズンの忘れ物を取りに行った現地観戦になりました(試合ではありませんが、敢えて「観戦」という言葉を使います。だって羽生結弦にとっては、どのアイスショーも戦いの場なのだから)。バルセロナで見られなかったファントムを、横浜で更に進化した形で見ることが出来ました。

本当にありがとう。

今日は千秋楽
何を滑ってくれるのでしょう。
怪我無く無事にスターズ・オン・アイスを完走出来ますように・・・

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu