村の属性

お正月にマルティーナさんが痛烈な記事を投稿していました。

最高のフィギュアスケートで新年おめでとう | Sportlandia

タイトルは皮肉です。長いので訳しませんが、今シーズンのグランプリ大会における悲惨な集客率を閑散とした観客席の写真と共に紹介・分析しています。その中で興味深かったのは、今シーズンのフィギュアスケート競技会で一見最も観客が多かった全日本フィギュアの最終日、日曜日に行われた男子フリーの観客席に対する指摘です。

以下、写真と共に引用します:

あまり大きな会場ではないにも拘わらず、満席からは程遠いことが分かります。私が最も衝撃を受けたのは演技直後、リプレイの前に目撃したシーンでした。宇野ははショート首位ですから最終滑走でした。彼は演技を終え、リンクを出てキス&クライに向かいます。最初のリプレイ映像が流れる前、カメラは観客席を映しました。スクリーンショットでは会場が満席でないことは分かりますが、この時、何が起こっていたかは分かりません。

 5:43から6:11の28秒間の出来事です。この28秒の間に、大勢の観客が立ち上がり、得点も聞かずに出口に向かいます。彼らが得点に興味がないのは明らかです。終業チャイムと同時に大急ぎで教室から出ていく学生や勤務時間が終わった会社員と同じ行動です。義務は果たしたので、もう自由です。帰ってもいいのです。

この逃走の結果は表彰式の時にはっきりと分かります。残った観客は僅かでした。

これは尋常ではありません。通常、観客は表彰式まで見届けてから帰るものです。

(引用終わり)

この映像を見ると、全日本フィギュアの土日は客席を埋めるために、主催者の関連企業の社員が動員されたという噂が信憑性を帯びてきます。全日本フィギュアは大変高額なイベントですが、フィギュアスケートに全く興味がない人からしたら貴重な休日、興味のない大会に観客として駆り出されるのはただの迷惑でしかありません。「義務」の時間が終わったらさっさと帰りたいと思うはずです。

トリノのファイナルもチケットが売れず、地元の各種団体に随分タダ券を配ったそうですが、イタリアの会社は休日を返上して社員にスポーツ観戦を強いるほど横暴ではないですから、チケットを貰っても興味のない人は見に行きませんでした(そもそも職場における自分の権利を侵害されることを嫌うイタリア人は強制されても行きません)。

その結果がこれです。

羽生君が出場した2019年ファイナルの公式練習の方がずっと観客が多いです。
私も見に行きましたが、早朝だというのに、開場前のパラヴェーラの前に長蛇の列。タクシーの運転手さんに「今日何かイベントがあるの?フィギュアスケートの大会?こんな朝早くから???」と目を丸くされました。

同じ時期に同じくパラヴェーラで開催されたバスケットボールのイタリア選手権の様子。パラヴェーラのような会場はある程度集客が見込めるイベントを選びます。昨年のファイナルは不測の事態だったのでしょう。

観客席をある程度埋めて体面を維持するために関連企業にチケットを引き取ってもらう、という発想は、日本の音楽や演劇の世界に蔓延る謎のシステム「チケットノルマ」に似ています。日本では二期会のような公益財団法人が主催するオペラであっても、出演者は大量のチケットノルマを持たされます。売れなくても返せませんから、売れなかった分は自己負担になります。チケットの価格と枚数を考慮すると、相当の金額になります。管弦楽団はどうか知りませんが、劇団でもチケットノルマが義務付けられているところが多いようです。チケットノルマを持たされた演奏家や役者は親戚や友人だけでなく、大学などの先生であれば自分の生徒にチケットを売りつけます。私も音大時代には先生のチケットを買わされたことが何度もありました。自分が師事している先生なら仕方がないですが、中にはずうずうしい人がいて、大して交流もなかった元同門下の先輩がリサイタルを開くとかで10枚もチケットを送りつけてきたことがありました。この時は冗談ではない、と丁重なお断りの手紙を同封して送り返しましたが、そんな強気な態度が取れたのは私が卒業後は海外に行くと決めていたからだと思います。卒業後、国内の音楽界で仕事をしていくつもりであれば、そう無下には断れません。先輩・後輩・友人の縦横の繋がりは、狭い世界で活動の場を確保していく上で重要です。友人や先輩のチケットをいつも買っていれば、自分がチケットノルマをさばかなければならない時には協力して貰えます。こうして持ちつ持たれつの関係が築かれていきます。私はこのチケットノルマは、典型的な村社会のシステムの一つだと考えています(ちなみにイタリアには音楽でも演劇でもチケットノルマなる制度はありません。こうしたイベントは市や地元の企業、地方団体などが後援者となり、チケット販売にも協力してくれますから、出演者はギャラを貰えても自腹を切って大量のチケットを購入する必要はないのです)。

【チケットノルマとは】舞台に出演したのに自腹でお金をとられる謎のシステム。 | ぼくは毎日書いてます (onoteppei.com)

内輪でチケットをさばき合う協力関係は便利ですが、結果的にいつも同じようなメンバー(つまり身内)しか見に来ませんから、その分野自体(クラシック音楽、オペラ、演劇など)の発展と普及には繋がりません。

名前だけでチケットが売れる国際的に有名な演奏家または演奏団体と、その分野自体の人気と需要の格差は広がっていくばかりです。

例えばスカラ座日本公演のチケットはすぐに売り切れますが、ずっと安価な二期会公演のチケットは会員が大量のチケットノルマを持たされ、下手したら自腹という格差です。だからチケットノルマは村のシステムだと思うのです。

そして、今のフィギュアスケート界がまさしく同じ状況です。羽生結弦が出演する4万席以上の東京ドームは高額なチケットが完売、彼の出演しない競技会とアイスショーはガラガラという現実。昨シーズンまでの大会が大盛況だったのは、羽生結弦人気で、フィギュアスケート自体の人気ではなかったことが、誰もが予想し、知っていたことですが、数字によってはっきり証明されました。

フィギュアスケート界は非常に狭い村社会だと思うと以前にも書きました。真央ちゃん人気に続き、羽生君の人気が地球レベルで爆発し、その状態がずっと続いていましたから、フィギュアスケートは人気スポーツと勘違いしている人がいますが、世界的にフィギュアスケートはマイナースポーツです。そして、マイナースポーツの競技団体ほど少数の幹部が内輪感覚で組織を私物化し易いのではないかと私は思います。

ISUや日本スケ連を始め、各国のスケ連がまさにそうではないでしょうか。組織としてはメジャースポーツの連盟より小規模ですし、メディアもマイナースポーツ連盟の内情をスクープすることはないですから、割とやりたい放題なのではないかと思うのです。

例えば、各国連盟が各大会に派遣するジャッジはどのような基準で選ばれているのでしょうか?

大会に派遣される選手は、公開されている所定の基準によって選考されます。派遣する大会によって基準は異なりますが、特定大会における順位、シーズン中の成績、シーズンベスト、ランキング等々。勿論、PCSやGOEに加え、!、e、q、<などのマークを巧みに使いこなすことで、順位を操作することはある程度可能ですが、それでも公開された試合の成績に基づき、公開された基準で選考されています。

しかしジャッジはどうでしょうか?

オリンピックのような主要な大会では国際大会で何回以上審査したかが問われますが、その基準を満たしたジャッジが国内に何人いるでしょうか?
そして、その中からどのような基準で適任者を選ぶのでしょう?

各国連盟が能力、経験、公正性などのジャッジとしての資質に基づいて人選を行っていると思いますか?
私にはそうは思えません。

アメリカのローリー・パーカーは自国連盟に大変重宝されているようですが、彼女は優秀なジャッジでしょうか?客観的に見て、とてもそうは思えません。明らかにルールのガイドラインに則っていないプロトコルを何度も見たことがあるからです。しかし、自国連盟の意向に沿った採点をする、という点を評価するのであれば、彼女は実に優秀なのかもしれません。

イタリア連盟は自国開催のトリノのファイナルに資格停止の前科があるジャッジを派遣しました。イタリアには他のジャッジはいないのでしょうか?マルティーナさんの分析を読むと、彼は不公正か無能のどちらかです。トリノの採点もルールから逸脱していました。ではイタリア連盟は何故重要な大会に彼のような人物を派遣するのでしょうか?彼には連盟に重宝される何かがあるのでしょうか。

このトリノの大会に派遣された日本ジャッジは連盟にとっては相当優秀な人材なのでしょう。2020年の全日本選手権では羽生君のショートプログラムのスピンを無価値と判定しました。

ファンだけでなく世界の専門家や識者が批判した判定ですが、村ですから連盟はあくまでも身内をかばいます。

羽生結弦「スピン0点問題」 日本スケート連盟が正式回答 | 東スポWEB (tokyo-sports.co.jp)

判定が妥当というのなら、根拠となる映像を提示すべきでした。
伊ユロスポ解説者で冬季競技アナリストのマッシミリアーノ・アンべージ氏はスローにして50回見返したそうですが、回転が足りてないか判断するのは不可能だったと言っています。アメリカのフィギュアスケート・アナリスト、ジャッキー・ウォン氏は、このテクニカルはシットツイヅルをスピンと間違えたんだろうと皮肉っていました。

いすれにしても、このテクニカルも、彼女をかばった連盟も、重要なことを忘れています。

フィギュアスケートのルールには「判定が難しい場合、選手に有利に判定する」という原則があります。彼女の判定はこのルールの原則を明らかに無視していました。そして、言うまでもなく、判定の基準は出場選手全員に対して統一されていなければなりません。「太腿が氷面と平行」というシットポジションの基本要件を満たしていないスピンがレベル4と判定され、高いGOEを貰っているのを私は何度も目撃しました。

スケ連の説明で納得した人はあまりいなかったようで、世界レベルで批判が殺到しました。

しかし、ネット上でこれほど批判の嵐が吹き荒れたにも拘わず、日本にはこの判定はおかしかった、と大っぴらに批判出来る骨のあるメディアはいませんでした。

ジャッジに対する疑惑や批判が一切報道されないのも、日本フィギュアスケート界の不可思議の一つです。

全日本フィギュアは国内で最も威信あるフィギュアスケートの競技会ですが、ルールを全く理解していない(あるいは意図的に無視している)彼らのようなジャッジがジャッジ席の常連になっています。

そしてお馴染み、マルティナーナさんによる元アメリカジャッジの著書「オン・エッジ7:権力ゲーム」を読み解いた記事で興味深い記述がありました。

米スケート連盟は、1,600万ドル以上の予算の内、約160万ドルをアスリート達に費やし、300万ドル以上の黒字を出している。 疑問は・・・残りのお金は何処に消えたのか?

(247ページ)

ジャクソンは一つの仮説を立てています。何かの投票がある時、ISU加盟国は各国1票を投じることが出来ます。

ISUは、「フィギュアスケートの発展」という名目で、世界中の非常に小さな国々に多額の資金を投じ、内部選挙での票を確保している。

(241ページ)

フィギュアスケート発展のプログラムが腐敗の手口として使用されているのです。ISUは私の調査などよりずっと本格的な、あらゆるタイプの調査を必要としているようです。いずれにしても、(少なくともフィギュアスケートでは)弱小国のジャッジ達が、財布の紐を握っている強国のジャッジ達と同じような得点を出しているのを見ると、何故そのような得点になったのか疑問を抱かずにはいられません。

著者である元ジャッジJ.ジャクソンによれば、ISUはフィギュアスケート未開国で競技を発展・普及させるという名目で、その国の連盟に資金援助を行い、ISU会議ではその国のISU会員に自分達に有利に投票してもらうというのです。

なるほど、そういうカラクリがあるのなら、このメキシコジャッジの行為も説明が付きます。


つまり、どうやらフィギュアスケートの世界では、優秀で公正なジャッジよりも、自国連盟の覚えめでたいジャッジの方が、優遇され、おそらく連盟の一存で、誰も知らない基準に基づいて重要な大会に派遣されるようです。これを村の密室人事を呼ばずして何と呼ぶのでしょうか?

例えばメジャースポーツのサッカーやテニスの審判員はどうでしょうか?ウィンブルドンやFIFAワールドカップの審判員が一部の人間による密室人事で選ばれるとは考えられません。

世界中のファンが注目するこのような大会で、万が一誤審が起こったら、大スキャンダルになり、連盟と審判員は吊し上げにされます。審判員の人選は慎重に行う必要があり、抜擢された審判員も相当の覚悟と責任感を持って試合に臨まなければなりません。

大金の動くサッカー界では昔から八百長や審判買収などの不正やスキャンダルが頻繁に取り沙汰されています。FIFAの腐敗を暴いたアンドリュー・ジェニングスの著書「FIFA 腐敗の全内幕」は衝撃的でした。しかし、そのFIFAさえもサッカーの人気と発展を守るには、競技の公正性と透明性をアピールすることが重要だということは理解しているようで、オフサイドやゴールなど一部の判定にVARを導入しました。カタール杯のドイツ戦における日本の勝ち越しゴールはVAR判定によって認められました。このVAR判定は論争を巻き起こし、「VARが判断したんだからインだ」「いや、あれはVARの誤審でアウトだった」と海外メディアの意見も真っ二つに分かれました。日本のメディアは「あれはアウトだった」と主張する海外の報道を含め、双方の見解を伝えていました。しかしこれが健全なジャーナリズムというものではないですか?
ネット上で大騒ぎになった、明らかに疑惑のある判定に対して、国内メディアが示し合わせたように一斉に沈黙、というは明らかに不自然です。民主主義国の日本では報道の自由は保証されていなければならないはずです。

器械体操でも審判にAIシステムを積極的に導入しています。

AI活用で新時代の体操、東京五輪は審判の「採点ミス」ゼロに?|【SPAIA】スパイア

「スポーツ競技のAI採点」が拓く健康未来 – フジトラニュース : 富士通 (fujitsu.com)

そして、NFL(アメリカンフットボール)、器械体操、テニス、バレーボール、レスリングなど、多くの競技で、選手が納得の行かない判定に審議を要求出来るチャレンジ制が採用されています。大相撲では「物言い」がありますね。この場合、行司に異議を唱えるのは当事者の力士ではなく、審判委員や控え力士ですが、いずれにしても「人間は誰しも間違える」ことを前提とした、裁判なら上訴のようなシステムです。一方、フィギュアスケートでは一般人がスロー映像を見てすぐ分かるほどの誤審(完全に回り切った、または回転不足が1/4未満のジャンプに対するqや回転不足判定、レベル要件を完璧に満たしているにも拘わらず、レベル3以下または無価値と判定されたエレメントなど)があっても選手は審議を要求することは出来ません。

同じ冬季競技のスキージャンプはどうか?

こちらは、2010年バンクーバー五輪直前にレイ・フィッシュマンがスレート誌に発表した「フィギュアスケートは八百長か?」というタイトルの記事の一部です。

エコノミスト、エリック・ジッツェヴィッツの研究論文に基づいた考察で、各国連盟が派遣したジャッジのグループによって採点されるフィギュアスケートと、各国連盟ではなく国際スキー連盟の小委員会がジャッジを任命するスキージャンプで採点の公正性を比較しています

ジッツェヴィッツは複数の国を「組織票」グループに分け、ジャッジ達が互いのスケーターを有利に採点し合う可能性があることを発見した:ロシアがフランスの背中の痒いところを掻いてやり(ロシアとフランスが互いに助け合い)、競技を犠牲にして両国のスケーターに利益をもたらした。結果的にジャッジパネルに同国人がいたことにより、スケーターを助けたのはその1人のジャッジの得点による直接的な影響だけでなかった(母国のジャッジはパネルの他のジャッジにもスコアを上げるように説得した)。

(中略)

ジッツェヴィッツは初期の作業で、スキージャンプのジャッジの得点を分析したが、自国選手への贔屓採点はほとんど見つからなかった。複数国のスケート連盟によって選ばれるフィギュアスケートのジャッジとは対照的に、スキージャンプではジャッジはスポーツの完全性に専心する国際グループである国際スキー連盟の小委員会によって任命される。フィギュアスケートのジャッジになるにはナショナリズム感覚が必要である。一方、スキーのジャッジになるには誠実さが必要である。

フィッシュマンとジッツェヴィッツは、各国連盟が自国のジャッジを選んで派遣する制度こそがナショナルバイアスや不正採点を生まれ易くする地盤を作っていると指摘しています。オリンピックのような重要な大会で、各国連盟は公正で優秀なジャッジより、連盟の意向を汲み取って「巧く」やってくれるジャッジを好んで派遣するかもしれません。派遣するジャッジの選考基準や選考過程は一切公開されないのです。誰を抜擢しても外部の人間には異議を唱えることは出来ません。

ここまでを総括すると、他競技のスポーツ連盟が、公正性と透明性のない競技は衰退することを理解し、AIやビデオ判定などのテクノロジーを積極的に導入する方向性で進んでいる中、カメラの台数すら増やさないフィギュアスケートは時代の流れに逆行していることが分かります。

それではスポーツ以外の分野ではどうでしょうか?

最近、ローザンヌ国際バレエコンクールの熊川哲也さんの記事に感銘を受けました。

「闘いましたよ、僕も」熊川哲也さん、ローザンヌ国際バレエで審査員

(以下引用)

ローザンヌの審査員はかなり過酷な業務ですので、僕にとっても闘いでした。ほんとうに大規模だし、かつ長丁場ですから。

楽しいとか懐かしいとか、そんな甘い気持ちにひたっていられる場所じゃない。若手たちは、それぞれに熱量を上げて挑んでくる。それをこちらも逃さないよう、はね返さないよう、とにかく責任を感じながら真剣に立ち向かいました。

英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパルを務めた熊川氏は、世界でもトップクラスのバレエダンサーで、現在は芸術監督、振付、演出も手掛け、日本のバレエ界を牽引されている方です。そのような方が、かつて自身もゴールドメダルを受賞したバレエコンクールで審査することは「闘い」だったと表現しているのです。自分と同じようにこの舞台から世界に羽ばたいていくであろう才能を見出し、評価し、審査することは、彼にとって「闘い」であり、「真剣勝負」であったことが、インタビューから伝わってきます。
この意識の高さ!
ISU総会開催中にプーケットでドンチャン騒ぎをしていたISU幹部との余りの違いに(比べるのも失礼ですが)眩暈を覚えます。

若手の登竜門として最も権威があると言われているローザンヌ国際バレエコンクールは注目度が高く、お粗末な審査は速攻で批判の的になります。

「審査員の多様性に欠ける」と批判殺到 ローザンヌ国際バレエコンクール – SWI swissinfo.ch

音楽の世界はどうでしょう?

音楽コンクールもピンからキリまでありますが、最も有名で威信あるコンクールとして認知されているのはショパン国際ピアノコンクールではないでしょうか。

音楽家のしょこらぁでさんが、ご自身のブログで紹介されているショパンコンクールの審査についてのお話は大変興味深いものでした。

ジャッジ | しょこらぁでのひとりごと (ameblo.jp)

こちらの記事ではフィギュアスケートのジャッジとのレベルの違いを詳しく考察しています。

マルティーナさんの記事を読んで | しょこらぁでのひとりごと (ameblo.jp)

この一文に私は顔面を殴られたような衝撃を受けました

ショパンコンクールの審査員で、ショパンのピアノ協奏曲を弾いたことがないという審査員は、まずいない。

私はショパンコンクールはいつも見ていますから、審査員が毎回層々たるメンバーなのは知っています・・・だから、確かに審査員が全員、ショパンのピアノ協奏曲を弾いたことのあるピアニストであることは知っているはずでした・・・

しかし、フィギュアスケートのジャッジの水準に慣れてしまった、というか諦めてしまった自分がいて・・・そこにこの一文

ショパンコンクールの審査員で、ショパンのピアノ協奏曲を弾いたことがないという審査員は、まずいない。

そう、ISUやスケ連のジャッジに羽生結弦の演技を評価出来る訳がなかったのです。

フィギュアスケートのジャッジの資格を取るのに、スケート経験者である必要はありません。スケート靴を一度も履いたことのない人でも試験に合格すればジャッジになれるのです。

しかし、スケートをやったことがない人に、あるいはやっていたとしても、世界でトップを争うレベルではなかった人に、現在の複雑なフィギュアスケートのプログラムを理解し、評価することが出来るのでしょうか?

例えば、トランジションとして評価される「複雑なステップ」にはロッカー、カウンター、ブラケット、ツイズル、ループなどが含まれます。ジャッジは映像を見て勉強し、見分けることは出来ると思いますが、これらのステップの組み合わせ、回数、入れる場所(例えばジャンプ要素の前後など)によってプログラムの難度が変わることが、これらのステップを実際にやったことのない人に分かるでしょうか。元シングルスケーターでオリンピアンのアンジェロ・ドルフォーニさんは(まだGOEが-3/+3の時代ですが)羽生君の3アクセルについて、「イーグルサンドの3Aは常に+3満点なのに、何故バックカウンターからの3Aは+3満点にならないのか理解出来ない。誓って言うが、絶対にバックカウンターからの方が難しい」と言っていました。バックカウンターからシングルアクセルさえ跳んだことのないジャッジが、羽生君のバックカウンターから完璧に実施された3アクセルに満点を出さない、そんな評価が受け入れられますか?

PCSのパフォーマンス(Performance)、構成(Composition)、音楽の解釈(Interpretation)の評価基準は以下のように定義されています:

Performance
基準
・肉体的で、感情的で、知性的な関わり合い(Involvement)
・投影(Projection)
・身のこなしと動きの明瞭さ
・動きとエネルギーの多様性とコントラスト
・個性とパーソナリティ

Composition
基準

目的
-意図、観念、ビジョン、ムード
・空間の多次元使用と動きのデザイン
・パターン/アイスカバレッジ
・フレーズ
-音楽のフレーズに合わせて構成された動きとパート
・構成の独創性

Interpretation
音楽のリズム、キャラクター、内容を、氷上での動作に個性的、創造的、純粋に変換する

・タイミング:音楽にピッタリ合った動作とステップ
・それが明確に識別できる場合、音楽のキャラクラ―/感情、リズムの表現
・音楽の詳細とニュアンスを反映する技巧を使用する
・音楽のキャラクターとリズムを反映するスケーター間の結びつき(ペア/アイスダンス)

この記事にジャッジセミナーで解説されているPCS各項目の評価基準が詳しく書かれています。

これらを評価基準を読むと、ジャッジには、バレエなどの舞台芸術や身体表現、音楽に対する深い知識と素養、そして鋭い感性が必要だと私は思います。スケートやバレエなどの身体表現を本格的に勉強したことのない人が、要素やステップの知識に加え、これらの基準に則って適切に評価する能力を数年で身につけられるものでしょうか?

ショパンコンクールやローザンヌ国際の審査員の殆どが、過去に同コンクールで優勝しています。つまり、出場者同様、幼い頃から厳しい練習を積み、感性を磨き、表現や解釈を模索し、権威あるコンクールで優勝したピアニスト/バレリーナが、キャリアを築き、熟達し、今度は審査をする立場で、かつて自分を世に送り出したコンクールに戻ってくるのです。彼らは予選を勝ち抜いてこの舞台に立つことがどれほど困難か、どれほどの犠牲と努力が必要だったのかを知っています。だから同じコンクールの優勝者として、音楽界/バレエ界の未来と発展は、ここで自分達が行う審査に懸かっている、ぐらいの責任と誇りを持って審査に臨むのでしょう。これらのコンクールでは、審査される側が前途多望な傑出した才能なら、審査する側は超一流です。

上記にリンクしたISUジャッジセミナーの内容を読むと分かりますが、ISUはルールのガイドラインだけは立派なものを作っているのです。問題は運用です。そしてジャッジの能力がこの複雑なルールに全く追いついていない。バイエルしか弾いたことがない人に、ショパンのバラードを弾けと言うようなものです。

スポーツであり、システム自体が音楽やバレエのコンクールとは異なるフィギュアスケートで、オリンピックではスコット・モイアやプルチェンコ・レベルの元選手ジャッジしかジャッジパネルに入れるな、と要求するのは無理としても、ショパンコンクールやローザンヌ国際と比較して、フィギュアスケートは評価する側と、評価される側のレベルが乖離し過ぎています。

フィギュアスケートはカテゴリー的には芸術ではなく、スポーツですが、オリンピック競技です。そして、1896年に第一回世界選手権が開催され、1908年にオリンピック競技になったフィギュアスケートはショパン国際コンクール(1927年に第一回)やローザンヌ国際バレエコンクール(1973年に第一回)よりずっと歴史が古いのです。

スポーツ界だけ見渡しても、AI導入の兆しが全く見えず、カメラの台数も増えず、チャレンジ制は検討されたことすらないフィギュアスケートは、公正性、透明性という点において、他の多くの採点競技より遅れています。

しょこらぁでさんの2つ目の記事のこの言葉に心を打たれます。

コンクールでも、やはり自国バイアスは皆無ではない。しかし、それを打破するのは、審査員自身なのだ。彼らは音楽を愛し、ピアノを愛し、ショパンを愛しているが故に、真の才能に対しては、利害を越える。

そして、それは彼らのプライドでもある。

フィギュアスケートのジャッジの中で、このように考えている人が何人いるでしょうか?おそらくいるとは思いますが、そのような清く正しいジャッジは狭い村連盟の中では煙たがられるのかもしれません。

何故?

フィギュアスケート界が村メンタルで凝り固まった人達に牛耳られた狭い村社会だからです。そうでなければ、上記のようなジャッジが、主要大会のジャッジ席に堂々と座っていられる理由が私には分かりません。

羽生結弦はこの狭い村に飛び込んできた彗星でした。
彼がもたらした光明(改革)を村の人達はついに理解出来ませんでした。
彗星は村を飛び出し、もっとずっと広い宇宙を照らそうとしています。

Disney+dアカウント以外の申込<年間プラン>” border=”0″></a></p>
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Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu