阿修羅ちゃん~革新の扉を開く

生ファントムの興奮冷めやらぬ翌日のお昼、横浜公演2日目を見に行きました。

今度は阿修羅ちゃんです。

正直に言うと、GIFTで阿修羅ちゃんを見た時、陸上さながらのダンスを見せるこのようなプログラムは、どちらかと言えば映像向きで、東京ドームのように、特設リンクの周りに配置された透明パネルの中で彼の分身が踊るなどの特殊な映像効果があってこそのプログラムで、普通のアイスショー向きではないのではないかと思っていました。

しかし、横浜のリンクで生の阿修羅ちゃんを見て、そんな考えは完全に吹っ飛んでしまいました。

まず、GIFTバージョンに比べると、リンクをいっぱいに使い、映像無しで身体一つで観客を魅せられるよう振付と構成に変更が加えられ、より従来のアイスショー向き仕様になっています。

GIFT版では一箇所にいることが多かったですが、SOI版は羽生結弦が縦横無尽にリンクを駆け回り、イケ散らかしながら踊りまくるプログラムでした。

それも想像を遥かに上回るスピードで。

あの超絶ステップを踏みながら、上半身をあれほど激しく動かしながら、どうやったらあんなに速く移動出来るのでしょう?しかも全くブレがない。

氷上でスケート靴を履いていることを忘れてしまう程、高速かつ複雑なステップ。そして、SOI版には3ループが組み込まれていました。何の準備もなく、まるでダンスステップの一部のように振付に組み込まれたジャンプ。しかも着氷後、回転方向にターンしてから、すぐに逆方向にターン。彼の体幹は一体どうなっているのでしょう。

ジャンプというフィギュアスケートの技術要素が組み込まれながら、ダンスであり続けられるのは、彼が何の準備も力みもなく自然にジャンプが跳べるからです。バレリーナのアレッサンドラさんが分析したように、阿修羅ちゃんは、ダンス要素が組み込まれたフィギュアスケートではなく、フィギュアスケート要素が組み込まれたダンスであり、彼はその卓越した技術とセンスによって、フィギュアスケートにこれほどハイレベルなダンスを落とし込めることを示したのです。しかも全て彼自身の振付だというのですから驚愕するしかありません。

ただ、フィギュアスケートの演技とはこういうもの、という固定概念が強い人には、このような演技、振付は斬新過ぎて理解出来ないのかもしれません。

でも、ネイサン・チェンもコレオシークエンスにヒップホップを取り入れていましたよね?
あれこそ上半身ばかりで足元はお留守になっていましたから「フィギュアスケート」という観点からはどうなの?と私などは思いましたが、ISUのジャッジは高く評価していました。何しろ、躓いてもジャッジ全員が5点満点を出すぐらいですから。

いずれにしても、従来の枠から飛び出した冒険や実験を批判する人、異質なものに拒否反応を示す人、革新を異端と決めつける人は常にいるものです。

印象派の先駆者となったエドゥアール・マネの作品を保守的なサロン・ド・パリは認めませんでした。

モダンバレエの先駆者の一人であるイザドラ・ダンカンはクラシックバレエの窮屈なコルセットやトゥシューズを脱ぎ捨て、緩やかな衣装をまとい、感情表現に重きを置いた、異国文化や自然に着想を得た自由な踊りを考案しました。それはやがてモダンバレエの原型となりますが、彼女の母国ではあまり評価されませんでした。

今や最もポピュラーなオペラやバレエの一つとなっているヴェルディの「椿姫」、プッチーニの「蝶々夫人」、チャイコフスキーの「白鳥の湖」も初演は不評でした。不評の理由は、ヒロインが高級娼婦という設定が不道徳とされた、聞き慣れない異国風の音楽が理解されなかった、従来のバレエ音楽とは異なるチャイコフスキーの高度な楽曲が観客に理解されなかった等々、いずれも従来の概念を覆す革新的な作品であったために当時の観客や評論家に理解されなかったようです。

そもそもチャイコフスキーが「白鳥の湖」を作曲した時代、バレエ音楽はオペラや交響曲に比べて芸術的価値が低いと見なされており、バレエやダンスは芸術とは見なされていませんでした。しかし、より斬新で芸術的な動きを追求する振付が生まれ、前述のダンカンを始め、アンナ・パヴロワやニジンスキーやマイヤ・プリセツカヤといった並外れた才能と感性を持つバレエダンサーの出現によって次第に芸術に昇華していったのです。今ではバレエもモダンバレエも誰もが認める舞台芸術です。

羽生君がフィギュアスケートで目指しているのも、こういうことではないでしょうか?

フィギュアスケートはスポーツです。芸術的要素が含まれる競技とはいえ、カテゴリー的には芸術ではなくスポーツです。

しかし、実を言えば、サッカーやアメリカンフットボールや野球のような、より男性的な競技しか認めないような層にとってはフィギュアスケートはスポーツですらなかったのですよね。
これまで女子のスポーツという偏見が少なからずあったフィギュアスケートが、実は非常に過酷で高難度なスポーツであることを広く認知させたのも羽生結弦でした。4回転ジャンプの数を増やし、高難度ジャンプやコンビネーションをプログラム後半に移動し、誰も跳んだことのない4回転ジャンプを習得し、新しいジャンプコンビネーションを考案するという挑戦を意欲的に始めたのは羽生君です。

そして、ジャンプ構成を上げるだけでなく、高難度ジャンプを如何に自然に振付に溶け込ませるかにこだわり、要素の入りや出に工夫を凝らし、細部を磨き、トランジションを豊かにして芸術的にも進化させていきました。他の選手達は彼の後を追い、誰よりも高難度のプログラムを滑り、エレメントの質の高さとコンプリートなフィギュアスケートによって高いGOEとPCSを稼ぐ羽生結弦に勝つために、4回転ジャンプの種類と数を増やしていきました。ただ、羽生君と違って他のスケーター達は、4回転ジャンプの数と種類を増やすために、プログラムの細部やトランジションはどんどん省略していきましたから、男子シングルがジャンプ大会、アイスジャンピングなどと揶揄される残念な現状に至っているのです。

競技の世界で頂点を極めた羽生結弦は、今度はルールの制約がないより自由で広い世界で、スポーツと芸術を融合させたパフォーミングアーツとしてのフィギュアスケートの可能性を模索しています。だからフィギュアスケートに他分野の要素をかけ合わせる試みを意欲的に行っているのでしょう。高度なダンステクニックとの融合。器械体操との共演、プロジェクションマッピングとの融合。それ自体は全く繋がりのないプログラム達を物語のピースとして嵌め込み、それらを内面の葛藤を吐露するモノローグで繋ぎ、壮大なアイススト―リーを織り上げたGIFTは、フィギュアスケート、音楽、映像、心理劇が融合された総合芸術でした。これもこれまで誰もやったことのない、そして誰も思い付きもしなかった大胆で革新的な試みです。プロアスリートとなった彼は、芸術とスポーツが融合した新しい形のパフォーミングアーツ「羽生結弦のフィギュアスケート」を全世界に届けようとしているのではないでしょうか?

フィギュアスケートはこうあるべき、という先入観に凝り固まった視野の狭い人達に羽生結弦がやっていることを理解するのは無理です。当然、エキセントリックな阿修羅ちゃんの振付も。もしかしたら、一人で東京ドームなんてけしからん!(単独ショーじゃウチのスケーター達におこぼれが回ってこないじゃないか!)という村独特のやっかみもあるのかもしれません。

芸術に正否がないように、フィギュアスケートにも正否はないはずです(あくまでも振付など芸術面に関してで、ジャンプの技術のことではありません)。

見る人の好みや感性によって受け取り方や感じ方が異なりますから、自分はこれが好き、これは嫌いという、個人の主観や好みの問題になります。

しかし、敢えて正否を判断するとすれば、アイスショーがエンタメである以上、答えを出すのは一部の関係者ではなく、観客であり、大衆です。

阿修羅ちゃんの演技中、そして演技の後も、横浜アリーナのボルテージは最高潮に達しました。開演前、司会に促された「発声練習」では遠慮がちに声を出していた観客が、阿修羅ちゃんでは文字通り絶叫していました。

これが答えです。

かくいう私も、阿修羅ちゃんの楽曲自体は決して好みではないはずなのに、横浜アリーナに行ったあの日から、阿修羅ちゃんの音楽が耳から離れず、超絶ステップを踏みながら、自由奔放にリンクを駆け回る赤いシャツを着た羽生君の姿が頭から離れないのです。

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu