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Crampi Sportiviより「生きる伝説」

Crampi Sportiviというスポーツ専門Webマガジンに掲載された記事です。
マッシミリアーノさんが嬉々としてツイートしていたので翻訳させて頂きます

 

ガブリエーレ・アネッロ著

生きる伝説

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原文>>

我々は進化の時代を生きている。記録がそれを超えるためだけに作られる進化の時代を。
多くのスポーツでこの現象を見ることが出来るが、深い知識がない競技で記録の壁が破られることを想像するのは難しい。
フィギュアスケートで不可能を超えることは何を意味しているのか?

少し前、このような進化は軽やかで優美な日本人の姿となって現れた。その外見が愛らしければ愛らしいほど、リンクに刻まれる軌跡は重要なものだった。彼の確固たる芸術性をほのめかす笑顔。しかしながら氷上ではまるでおとぎ話のような道を切り開くのだ。
若干23歳にして現オリンピックチャンピオンとして平昌にやってくる。
世界記録を12回塗り替え、現在も数々の世界最高得点を保持している。

 

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羽生結弦――彼はただの選手ではない。ウィンタースポーツのエキスパートでユーロスポーツの解説者であるマッシミリアーノ・アンベージは熱弁する。この日本人は「僕の意見では戦歴を別にしても、既に史上最も偉大な選手なのだ」

 

メイド・イン・仙台

スポーツ史において天才少年は数多く見られるが、早い時期から己の才能を管理し、精練することは簡単なことではない。
しかしながら仙台で生まれ育った羽生は-喘息を患い、このために両親がただ健やかで平穏な人生が送れることを願っていた少年は-これをやってのけた。
彼は姉さやを追いかけてスケートを始めたのだ。

 

「練習が嫌いだったことを覚えています。でも大勢の人が見に来てくれる試合は大好きでした。6歳の時、初めての試合で優勝しました。まだ前歯も生え揃っていなかったので・・・精一杯いい笑顔を作ろうとしました」

 

日本の有名なアニメ『ユーリ!!! on ICE』のように、日本の少年にとってのアイドルは冬季オリンピックで4つのメダルを獲得したロシアのスケーター、エフゲニー・プルシェンコだった。

 羽生は野球さえやめようと考えたが(野球は今でも日本で最もメジャーなスポーツの一つ)、スケートは好きだった。大好きだった。
彼にとってのもう一つの転機は近所のスケートリンクが経営難で閉鎖されてしまったことだった。

 

「このことがきっかけで僕は自分がどれほどスケートが好きかを自覚しました。この時からスケート無しではいられないと思うようになりました」

 

仙台のリンクは2007年に再開し、羽生は練習を再開するとすぐにジュニアカテゴリーで輝き始めた。13歳で手にした史上最年少での全日本ジュニア優勝は、その後の躍進の序章に過ぎなかった。2010年に東京開催のジュニア・グランプリファイナルで優勝、同シーズン、デン・バークで開催されたジュニア世界選手権も制した。

 

「ジュニアチャンピオンになれて嬉しいです。でも何よりもここ一番で力を出し切ることが出来て嬉しいです。日本人選手は僕一人だったのでプレッシャーがありましたが、プログラムをミスなく最後まで滑り切り、難しいジャンプを決めることが出来ました。僕はいつもコーチである阿部奈々美先生を信頼していますし、だからこそ勝ったのです」

 

この時点でもう一段階上に進むことは決まっていた。15歳でのシニアデビューがほぼ約束されたのである。

 

成長

成長するということは氷上で上達することだけを意味しているわけではない。時には思いがけない状況に直面しなければならないことも意味しているのだ。

あの2011年3月11日のように。

この日、羽生はいつも通り仙台で練習をしていた。彼は国際大会でのシニアデビューでそこそこの成績を収め(GP大会で4位と7位)、更に四大陸選手権で銀メダルを獲得していた。
全てが通常通りだった・・・14時46分までは

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建物全体が轟音に包まれ、揺れは6分間続いた。
東北を襲った地震・・・この地震によって引き起こされた津波はこの地方を破壊し、想像を絶する被害を招いた。
羽生はスケート靴を脱ぐことさえ出来ず、スケートリンクから走って逃げた。

「今でも目を閉じると・・・地面が盛り上っていく光景が蘇ります。立っていることが出来ませんでした・・・破壊されていくリンク・・・全てをはっきりと覚えています」

 

仙台は壊滅的な被害を受けたが沿岸地域ほどではなかった。それでも羽生一家は避難所で数日間過ごすことを余儀なくされ、何よりもスケートリンクは地震による損傷のためしばらくの間、またしても閉鎖されることになってしまった。

それでも・・・スケートをする意味があるのか?
羽生は自分自身にこう問いかけた。

「僕は避難所で過ごした4日間について長い間考えました。僕はこれまで当然だと思っていたことがそうではないことに気付きました。家族がいて、家があって、生きていることに感謝しなければならないと。これらが存在することが幸運だということ。地震は僕の価値観を変えました」

 

日本の少年は練習する町を変えなければならなかった。練習場所を求めて神奈川県や青森県に移動した。問題はリンクだけはなかった。
あの日々の記憶が彼を苦しめた。

「集中している時、僕は全てを視覚化することが出来ます。ジャンプも空間も視覚も。でも地震のことしか考えられませんでした」

こうして彼はオフシーズンの間、チャリティーアイスショーに参加した。

羽生は氷との感触を取り戻すために60公演ものチャリティーショーをこなした。
アイスショーの公演は週末だったが、彼は水曜日と木曜日に練習することが出来た。
こうして練習場所を確保し、2011年7月には仙台のアイスリンクが再開した。

「あの日、僕は死の恐怖を味わい、自分は短命に終わるのではないかと恐れました。でも今、僕はこうして再びスケートが出来ることに感謝しています。僕は一日一日を精一杯生き、被害を受けた地域の役に立ちたい」

羽生がこの震災を忘れることは決してなかった。彼は今でも東北全土のシンボルであり、代弁者であり、被災地復興のために無数の資金を集めようと尽力している。それどころか羽生は2冊の自伝「蒼い炎」と「蒼い炎II」の印税全額を仙台のアインスリンクに寄付している(合計2500万円もの額だ)。

 

スターダムに駆け上がる

ショックから立ち直り、再びリンクを使えるようになった羽生は華々しい成績を収め始め、グランプリファイナルに初めて出場した。そしてカナダの元スケーターで、オリンピック2度銀メダリスト(84年サラエボ大会と88年カルガリー大会)のブライアン・オーサー・コーチと組む決心をする。2010年バンクーバー・オリンピックでキムヨナを金メダルに導いたオーサーは当時から既に高い評判を得ていた。

成長し続ける羽生は、2014年ソチ冬季オリンピックでメダル候補に躍り出た。そしてこの2014年は彼が全てを手にした魔法の年になった。

最初の舞台はグランプリファイナルが開催された福岡。羽生はここでショートプログラムの歴代最高得点を叩き出し、フリープログラムでも作品を完成させて、まずこの大会で最初の金メダルを手に入れた。

https://www.youtube.com/watch?v=MbNqkpK9K4g

<ここで点差を築いた>

 

その2週間後、埼玉で、羽生は全日本選手権でも金メダルを獲得し、圧倒的優越を改めて見せつけた。
しかし、本物の傑作が生まれたのはソチだった。日本の選手はショートプログラムで歴代最高得点を塗り替え、強敵だったカナダのパトリック・チャンに大差をつけ、フリーでも首位を守り切った。
こうして羽生はアジア人スケーターとしては史上初のオリンピック金メダリストになった。1948年のディック・パトンに次いで史上2番目に若い金メダリストだった。

<動画冒頭で「彼は自分がやっていることを心から愛しているように見える」とコメントしている。そして羽生自身も「僕にとってフィギュアスケートとは何か?何よりも楽しい。勿論、練習はきついけれど、フィギュアスケートは内に魔法を秘めていると思う」と認めている>

 

そして世界選手権で輝かしいシーズンを締めくくった。そう、羽生はこれだけタイトルを集めてもまだ飽き足りず、母国の埼玉で世界タイトルも掴んだ。ただし、ショートプログラムは輝かしい演技ではなく、町田樹に7点差を付けられた。羽生はフリープログラムで巻き返し、0.33差で彼を破った。

 

20歳でシンボルに

この圧倒的な破壊行為の後、羽生結弦がどれだけの賞を獲得し、何をやってのけたのかを要約するのは容易ではない。

ソチ以降の4年間で彼が成し遂げた驚異的な快挙の幾つかのハイライトを箇条書きにする方が簡単だろう:

  • 中国杯で6分間練習中に羽生は中国人選手ハンヤンと衝突したにもかかわらず、競技を続行し、2位に入った。
  • 歴代最高得点を何度も塗り替えるが、中でも2つの重要な大会で記録を更新した。一つ目は2位に37.48点もの大差をつけた2015年バルセロナのグランプリファイナル。この点差は彼の神話であるプルシェンコ(35.1点差)の点差記録を上回るものだった。そして2つ目は2017年4月の世界選手権で、1つのプログラムで220点を超えた史上初かつ唯一のスケーターとなった。

 

  • 2016年、公式大会で史上初めて4ループを成功させた。実際、ハードな練習によって彼の挑戦は留まるところを知らない。アンベージが力説するように「ライバル達は彼と戦うためにプログラムに4回転ジャンプを何本も追加し、難度を限界まで引き上げなければならなかった。でも羽生は既に4種類の4回転ジャンプを手中に収めていた」.
  • 母国における羽生の爆発的な人気は驚異的だが、それは彼の功績によるものだけではない。羽生の人気の秘密は、彼がリンクでの真剣さとオフリンクでの気取らなさという2つの顔を絶妙なバランスで使い分けることの出来る青年だからだ。彼のDVDやブルーレイ、写真数の売り上げが5桁の数字を記録しているのは偶然ではない。それどころか羽生は侍役で俳優デビューまで果たしているのだ。
  • 大手新聞『The Japan Times』が2016年2月に行った『国内で最も有名な選手』というアンケートで、羽生はテニスの錦織圭に次いで第2位に選ばれている。
  • 芸術とスポーツの功労者に授与される日本の名誉ある賞、紫綬褒章を受賞。40人ほどの少人数にのみ与えられる賞で、狭義でのスポーツ界からの受賞者は羽生と塚原光男(元体操選手、オリンピック金メダル5個、その他の五輪メダル9個)だけだった。

 

しかしこれらの記録と呼ばれる快挙の数々は一体偶発的なものなのか?
その背景を知るために我々はウィンタースポーツの知識においてイタリアでは右に出る者がいないマッシミリアーノ・アンベージの意見を聞く必要があった。
我々は羽生結弦が記録を別にしても、何故これほど偉大なのかを理解するために、数少ない、しかし的確な質問を彼に投げかけた。
そして確かに彼は偉大なのだ・・・ニューヨークタイムズでさえ彼の写真で紙面を飾りたくなるほどに・・・

私達は羽生がこのスケート界で生きる人間(競技の関係者や解説者、業界の要人)にとってどのような存在なのか尋ねた。

『羽生結弦は全能の技術と卓越した芸術の融合だ。彼はフィギュアスケートを進化させた選手だ。何を実施するか、だけではなく、とりわけどのように実施するかによって。
全てのジャンプ要素がイーグルのような複雑なステップステップシークエンスや難しい入り方から実施されているのは決して偶然ではない。

各ジャンプ要素へのアプローチを少し簡単にすれば、どの試合でも勝つことが出来るのに彼はそうはしない。なぜならそれは彼の気性に反することだからだ』

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<今シーズンは練習中の怪我のためにソチオリンピックのシーズンのように順調ではなかった。それどころかギリギリまで出場出来るかどうかを危ぶまれていた>

 

「怪我をする前、彼はショートプログラムの歴代最高得点を更新し、モスクワ大会では10月にしては彼のキャリアで最も高い得点を記録して2位に入った。

現時点では彼のコンディションは不明だが、数週間前から問題なく練習しているから、オリンピックには間に合うだろう」

 

称号付けや別のスポーツとの比較は危険なことだが、フィギュアスケートについて深い知識がない我々としては、一つ理解しておきたいことがある。

羽生結弦は90年代のバスケットボール界におけるマイケル・ジョーダンのような競技を拡大させるフィギュアスケートの推進者のような存在なのか、それとも陸上のボルトのようなこのスポーツの大使なのか?
アンベージは間髪を入れずに即答した:

「羽生はだいぶ以前からフィギュアスケート界の主役だ。

歴史のこの瞬間、世界で最も注目されているウィンタースポーツ選手だ。冬季オリンピックの競技史上、ほとんど前例がないほどのメディアの超常現象で、既にこの競技の主要な大使だ。オリンピック2大会のこの8年間、リンクの中でも外でも彼は注目され続けた」

 

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<我々の誰もが歴史を作る。例外はいない。とりわけ羽生結弦が>

 

マッシミリアーノ・アンベージの貴重な協力に感謝する。彼なしでは羽生の人物像を理解することはかなり困難だったろう。ユーロスポーツの実況では勿論、FacebookTwitterでも彼に会うことが出来る

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<筆者プロフィール>
ガブリエーレ・アネッロGabriele Anello)
パスポートはイタリア国籍だが心は日本人
MondoFutbol.com、 Crampi Sportivi 、J. League Registaで執筆。
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☆温かい、感動的な記事ですね
単に選手としての功績やキャリアだけでなく、羽生結弦という人物、人間性、その生い立ちまで掘り下げた、これほど深く詳しい記事がイタリアで紹介されるのは凄いことです!
しかもタイトルが「生きる伝説」!!!

この記事執筆のためにマッシミリアーノさんがあらゆる協力を惜しまなかったことは疑う余地もなく、結弦ネコ動画は彼が提供したに違いないと私は確信しています!(断言)

スポーツジャーナリストが結弦ネコ動画を視聴しているだけでも笑えるのに、記事にリンクしてしまうとか・・・(本文のリンクをクリックしたら結弦ネコ動画が出てきた時は目が点に!!・・・それで15分ぐらい笑いが止まらなかった!!!):stralol::stralol::stralol:

Grazie mille per bellissimo articolo!!!

 

Published by Nymphea

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち