EleC’s Worldより「羽生結弦~何事も偶然では起こらない」

いつも伊ユロスポやRai Sport実況解説の貴重な動画を提供して下さるエレナさんがご自身のブログEleC’s Worldに投稿されたエッセイです。

彼女自身が苦難に満ちた人生の中で羽生結弦に出会ったことで、如何にして救われ、希望を見出し、前に進むための勇気とパワーを取り戻していったのかが赤裸々に、ストレートに語られる、まさにエレナさんの再生の物語です。

ハンカチを用意することをお勧めします・・・:awww:

私自身、翻訳しながら😭😭😭

 

原文>>

 

Elena C著
2021年3月9日

これまで何度も羽生結弦に対する私の愛情と感謝の気持ちを表明してきましたが、今日はこのテーマについてより長く書きたいと思います。何故なら詳しく説明したいと言う気持ちに駆られているからです。私の限られた語彙力でどこまで可能なのか、そしてそれが出来たとして、皆さんの心に入っていくどうかは分かりませんが。

多くの人が理解出来ず、馬鹿げたことだと考えます。

そして「実際に知らない人をどうしてそこまで好きになれるのか?地球の反対側にいる、絶対に会うことが出来ない、君の存在すら知らない人を」と言うのです。

確かにそうです。何故なら、実際には万人ではなく、「美」に引かれる人の心にだけ入っていくものだからです。ここで言う「美」とは外見の魅力ではなく、魂の美しさ、心、精神、知恵、文化、確固たる価値観、礼儀、優しさ、物腰の優雅さ、繊細さと強さを兼ね備えた性格、そしてその他多くの資質全てのことです。

また、自分自身の人生を向上したい思っている人、または困難な時期から抜け出そうともがいている人、そしてこの世に欠かせないもの、「希望」を必要としている人の心にも。

ユヅは自らの在り方と、そのあらゆる行動を通して、探しさえすれば、あるいは時にはそれを自分で作り出そうとさえすれば、人生は素晴らしく、あらゆることに「善」があると言うことを示し、どんなにネガティブな出来事からもポジティブな経験を引き出せること、如何なる転落、喪失、敗北からも不死鳥のごとく蘇り、前より一層強くなって立ち上がることが出来ることを教えてくれました。

私にとって彼はまさにそうでした。どんなに感謝しても感謝し切れません。私が彼のため、というより彼に敬意を表してやっているささやかな事では、一生かかっても彼が私に与えてくれたものを返すことは出来ないでしょう。

私のことを少し

 

私は割と無口で、自分の人生のプライベートなこと、特に悲しいことについて話すことを好みません。でもユヅがどのように私の人生に入ってきて、どのように私の人生を根本的に改善したかを知ってもらうには、私が直面し、乗り越えた、しかし不可避的に傷跡を残した出来事について話さなければなりません。

私の母は私が13歳の時に心臓の手術を受けました。そして私が17歳の時に脳溢血を起こし、この瞬間から私達一家の生活は一変しました。母は部分的に回復したものの、片麻痺が残り、歩行に杖が必要になり、片方の腕しか使えませんでした。その4年後、私達は新しい家を探し始め、購入のチャンスに恵まれました。新居は前の家より広く、綺麗なだけでなく、階段が少なく、庭がありましたので母にとってより快適でした。この時、私達は皆、生活が向上し、辛い思い出は古いマンションに残り、再出発出来ることを期待していました。

数カ月で母は飛躍的に回復し、片腕だけで洗濯、アイロンがけ、掃除、料理などのほとんどの家事をこなしていました(私の母は気丈で勇敢な女性で、このような目に遭っても嘆いているのを見たことがありませんし、むしろ私を励まし、私に全てを与えてくれました)。彼女はまさに一家の原動力でした。

私達はこの新しい家で1年半ほど晴れやかに過ごしました。その後、母は再び心臓手術を受けなければならなくなりますが、幸いなことに全てうまく行きました。それまでの状態を考えると非常にリスクの高い手術でしたが、彼女はこの試練すら乗り越えました。

母は7月のある晴れた日に帰宅しました。何ヶ月にも渡る不安と恐怖の後、私達は皆、リラックス出来る夏を期待していました。

帰宅から2週間後、失神したのか、単にバランスを崩したのかは分かりませんが(彼女は常に杖を使って移動していました)母は転倒し、サイドテーブルの角に頭をぶつけ、再び悪夢が始まりました。脳出血と大腿骨の骨折。

昏睡状態に陥った最初の日は恐怖でした。そしてその後、出血が止まって再吸収され危機を脱しました。

骨折した大腿骨の再建手術。心臓手術から1ヵ月経っていませんでしたから、再び全身麻酔で大手術を行うのは高リスクでした。手術はうまく行きましたが、母は更に深刻な脳損傷を伴う虚脱状態に陥りました。もう少しで私達を残して行ってしまうところでしたが、この時でさえ輸血と何週間にも及ぶ集中治療のおかげで母は私達の世界に留まることが出来ました。

私が絶望的なほど母を必要としていることは分かっていました。私は重度の視力障害を抱えて生まれてきました。小学生の頃からクラスメイトにからかわれていた私にとって、母は私の力であり、私の支えでした。勿論、父も常に私に寄り添ってくれていました。私達は常に固い絆で結ばれた仲の良い家族でした。しかし、私は自分のフラストレーションと怒りを母にぶつけることでストレスを発散し、彼女は私の傷ついたプライドを癒す方法を知っていました。一方、父は私を甘やかして可愛がり、家の女王様のように感じさせました。

そう、これが私達一家の状況です。母は私の支えであり、私の傍に留まりました。私達は何とか危機を脱したのです。母は1年間でほぼ6ヶ月に及ぶ入院生活の後で病院から自宅に戻ってきました。

この時、私は24歳でした。

しかし、この時から私達の生活は一変しました。母は片麻痺で車いす生活を余儀なくされ、同時に身体のもう片側にも運動障害が現れ、頭ははっきりしていましたが、話すことが出来なくなりました。彼女とのコミュニケーション、彼女が何を言いたがっているのか理解しようと努め、決して諦めず、嘆き悲しんだりせずに懸命に努力する母の姿を見ることは、私達にとって絶え間のない苦しみになりました。

2012年、私の住む地域でマグニチュード5.9の地震が数回に渡って発生しました。このような状態の母を抱える私達は外に逃ることは出来ませんから、私と母と父は互いに寄り添い、何が起こるのかじっと待っているしかありませんでした。揺れの合間を縫って私達は1階に移動し、それから4カ月間、簡易ベッドを使って家族3人で一部屋で過ごしました。恐ろしい時間でした。私は揺れている時はほとんど恐怖を感じませんでした(おそらく自覚がなかったのでしょう)。恐怖は後からやってきました。大切なものを失うかもしれない、という考えが頭を過ったからです・・・両親、家、思い出、全てを!

この時期も過ぎ、平常の生活が戻ってきました。いつもの問題と共に。しかし、その数か月後から母は軽度の一過性虚血を頻繁に起こすようになりました。頻度はますます高くなり、状態は徐々に悪化していきました。2012年から2015年にかけて、母は次第に明晰さと反応性を失い、寝たきりになりました。その後、普通の食事が出来なくなり、離乳食とゼリー状の水だけを摂取するようになりました。2015年2月に再び脳溢血を起こして昏睡状態になり、その5週間後、母は帰らぬ人となりました。

そして今、私は父と二人きりで生活しています。長年私達に喜びと楽しいひと時と、溢れる愛情を与えてくれた3匹の猫達も数年前に私達を残して行ってしまいました。現在、私達は再び自分達の均衡を取り戻しました。基本的に私達は健康で元気ですが、これまでに私達が直面し、乗り越えてきたこれらの出来事は、私達、とりわけこの先の人生がまだ長い私の中に何らかの形で残っています。

恐れ、不安、記憶、ノスタルジア、私に出来なかった、そして夢見たであろう全てに対する怒りが私の中に残りました。

要するにこれが私です。私は非常に広大な内面の世界を持っていますが、外の世界は狭く、小さく、そして複雑なのです。

でも、今では全てがずっと良くなりました!

 

絶妙なタイミングで現れた羽生結弦

 

ユヅはこのような時に現れました。

彼が自身のシニアデビュー戦でイタリアのテレビに初めて登場した時から、私は一目で彼を気に入りました。これほど可愛く優美で、幼さの残る無邪気な笑顔には抗いがたい愛らしさがありました。しかも彼はスケートにおいても優秀でした。見事な演技、素晴らしい才能!私は称賛の念を抱いて彼に注目し、追っていましたが、当時は彼の「ファン」と言う程ではありませんでした。

しかし、ある瞬間から彼は完全に、容赦なく私を征服したのです。

それは2014年中国杯で起こりました。彼は負傷し、足を引きずりながら競技し、そこで彼が見せつけた勇気、意志の力、情熱、そして狂気に、私はなす術もなく、完全に心を鷲掴みにされました。

この瞬間から、私は彼のニュース、写真、動画を求めてネットで検索し始めました。そして数週間で私は文字通り「彼の魔法」にかかってしまいました。私が既に知っていた彼の並外れた才能だけでなく、彼の人間性、これほど特別な彼の在り方、そして・・・認めましょう、彼の容姿にも私はすっかり魅了されてしまったのです。

私は何事も偶然では起こらないと確信しています。

実際、ユヅとのこの「出会い」は母は亡くなる4カ月前、脳溢血が母を襲う、およそ3ヵ月前でした。

私は母に彼の動画を見せることが出来ました。そして彼女は感動し、彼を見ながら涙を流したのです。私は母が亡くなる前に彼を知ってもらうことが出来たことに満足しています。

悲しみと苦悩に満ちたこの数カ月間、もし掴まるものが無ければ私は壊れていたかもしれません。しかし、まさに絶妙なタイミングで彼が現れ、私の日々を感動で満たしてくれました。当然のことながら、母が昏睡状態にあった5週間の間は彼とスケートのことを考える余裕は余りありませんでしたが、彼のことを思うと、少しは元気になれたのです。

上海での世界選手権は、母が亡くなってからちょうど1週間後に行われ、私は特別な注意や熱意を持たずに試合を見ていました。私の心はもっと深刻なことで引き裂かれていたからです。至って当然のことです。 しかし、ユヅの存在は私の人生に忍び寄り、私が立ち直るのを助けてくれました。

 

何事も偶然ではない

 

2014年11月のあの日、結弦はサイクロンのようにやってきて、窓を開け放って入ってきました。まるで爽やか突風、アドレナリンの奔出のように。

自分を取り巻く全てに対する失望や無気力から私を揺り起こし、自分の身に起こった全てに対する怒りから私を解き放ち、私を揺さぶるために現れました。

「自分が可哀そうだと思うのはやめようよ。問題を抱えているのは世界で君一人ではない。それどころか、多くの人に比べたら、君は幸運な方だよ。君の問題、欠点、不運は人生の一部だ。自分の持てるものを取り、それを最大限に活用すればいいじゃないか。僕は勝つために戦い、出来るだけ多くの人に届くよう、彼らに希望と平安を与えるために勝つ。僕は多くの試練を乗り越えて、今のフェノメノ(超常現象)になった。君も今こそ腕まくりをして仕事に取り掛かるべきだ。僕は人の2倍頑張る。君にだって出来るはずだ。自分をより恵まれている人と比べるのは止めよう。そうではなく、自分より恵まれない人に目を向けて、出来る限り助けてあげようよ」

 

数カ月、そして数年に渡る年月の中で、彼は常に思慮深い言葉、生き方、行動、人生そのものに反応する彼の在り方によって私に多くのことを教えてくれました。

私は自分が信じるもののために戦い、自分の夢を追求したいという願望を再び自分の中に見出しました。天性の才能(それがある場合)だけでは十分ではなく、多大な努力、多大な労力、避けられない試練の時期を乗り越える忍耐力が必要だということを私は心底から理解しました。

私は人生の中で、常にあらゆる些細なことのために戦わなければならず、私を助けてくれるものは何もありませんでした。しかし、余りにも多くの苦悩の後、私は絶望に屈するところまで来ていました。でもユヅが手を差し伸べ、私が立ち直り、再び戦い始めるのを手伝ってくれました。

時間が経つにつれて、この新たな姿勢によって私はスーパーアクティブでプロジェクトを山のように抱える青春時代のエレナに戻ることが出来ました。そして、微力であっても、結弦を出来るだけ多くの人に知ってもらい、理解してもらうことを目的とした様々な活動をするようになりました。

こうして、YouTube、DailyMotion、Vimeoの動画チャンネル、このブログ、Facebookページ、イタリアファンのFacebookグループなどが生まれ、世界中の人々と交流し、私にとってとても大切な新しい友達が出来ました。 私は新しいことを学習中で、自分自身を向上し、他者を助けるための新しいプロジェクトで頭が一杯です。

・・・そして、休眠中の炎を再燃させた火花は羽生結弦でした。

これら全てを・・・ありがとうユヅ。

ありがとうございます

これからもずっとあなたを応援し、出来る限りあなたを支援し続けます。

あなたがいつも健康で幸せであることを願い、祈っています。

がんばってください!

 

エレナ

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu