Poligono 360より「人々は何故、羽生を愛するのか」

冬季競技について360°の視点からディスカッションするポッドキャスト「Poligono 360 Live」最終回より
前回のポッドキャストと内容が被りますが、マッシさんが現在のフィギュアスケートの危機的状況と羽生君のフィギュアスケートについて熱く語っていましたのでその部分を翻訳します。

エレナさんとイタリアのファングループがその部分の動画を切り取り、英語の字幕を付けてくれています。
Grazie Elena!

こちらはポッドキャスト全編の元動画
https://open.spotify.com/episode/6XF7eDIYfAXSzqM9pB26hl?si=QO9PpVrlTyuEHxY8E_OonQ

ジャンマリオ・ボンツィ(G) 司会
ダリオ・プッポ(D) ユロスポ解説者
マッシミリアーノ・アンべージ(M) 冬季競技アナリスト/ジャーナリスト、ジャーナリスト

G:世界フィギュアスケート選手権の話題から始めよう。テレビでも少し触れたように、男子シングルは皆が満足出来る結果ではなかった。少なくとも目の肥えた視聴者にとっては満足のいく結果ではなかった。

M:18歳のマリニンは全ての4回転ジャンプを跳べる。彼は特例だ。まだ試合で成功させていないのは4ループだけだが、もうすぐ東京で世界国別対抗戦が開催されるから、彼の目標はこの大会で4ループを降りて史上初めて6種類全ての4回転ジャンプを成功させた男になることだろう。
問題は、ジャンプ大会で勝つのと、フィギュアスケートの大会で勝つのとでは、話が違うということだ。

D:ジャンプ大会ではないよね。

M:ジャンプ大会ではない。
問題は、技術点と演技構成点と呼ばれる芸術点の比重は同じであるべきということだ。
現在はそうではない。
技術点の満点が145~150点に達するプログラムを滑る選手がいる一方で、芸術的に完璧で一糸の乱れもないプログラムを滑っても最高100点しか持ち帰れない。
2つの得点の比重が如何にかけ離れているか理解出来るだろう?
だから、演技構成点の係数を変えて、芸術的に優れた選手が演技構成点で最高150点に到達出来るようにするか、4回転ジャンプの数を制限してこの傾向にブレーキをかけるか、いずれの対策を講じるべきだ。

僕達は助走-ジャンプ、助走-ジャンプだけで構成されたプログラムを幾つも見た。ジャンプ以外、貧しいプログラム。そして、しばしばこれらのジャンプは正しい技術ではなく、間違った方法で実施されている。フリップとルッツに関しては一冊の本が書ける。僕達はフルブレードアシスタンスと呼ばれるフリップを見た。フリップはトゥジャンプだ。フルブレードアシスタンスとは、離氷時にブレード全体が氷にべったり付いている跳び方で、このフリップは本質的にループになっている。トゥではなく、エッジで踏切る別のジャンプだ。この問題については考察すべきだ。

フィギュアスケートはどこに向かいたいのか?
アイスアリーナは、フィギュアスケートが人気スポーツの日本以外、どこも常にガラガラだ。
つまり大衆がこのフィギュアスケートを好きではないのは明らかだ。従って、何か妥協策を見つけなければならない。当然、特定のカテゴリーで一流選手を有するロシアの不在も重い。観客は一流選手は見たいからね。

D:僕はこのような比較をしてみたくなる。
テニス界ではフェデラーにまつわるこのテーマは随分前から取り沙汰されていた。
フェデラーが引退したらどうしたらいいのか?
フェデラーの引退後、テニス界は一体どうなってしまうのか?と

今年は競技会から羽生がいなくなった最初の年だ。

競技会で彼を最後に見たのはオリンピックだった。
何より衝撃的なのは、この青年は自分のフィギュアスケート、僕達が主要な大会でも見たいと思うフィギュアケートの道を極める歩みを今も続けているということだ。彼はショーをやっているが、彼の哲学は、今も広がり続けている。


彼がやっている驚異的なフィギュアスケートと、空っぽで、とりわけ審美面が疎かにされている現在のフィギュアスケートは余りにも対照的だ。フェデラーもそのプレイの美しさによって、テニスを審美面においても並外れたレベルに引き上げた。

M:彼は自分のアイスショーの中で、技術面と芸術面の調和を追求している。これは彼が自分のスケート人生において常にやってきたことだ。
2012年に羽生がニースで自身初の世界選手権メダルを獲得した時、彼は3位に入ったけれど、彼が皆に衝撃を与えたのは、無数の4回転ジャンプを跳んだからではない。彼は4回転ジャンプも3アクセルも跳んだ。不意に転倒するが、立ち上がった。彼が皆に衝撃を与えたのは、この叙事詩的なプログラムによって観客との間に共感を生み出したからだ。


もうすぐこのプログラムから11年になるけれど、驚異的なロミオ+ジュリエットだった。現代風にアレンジされた映画で、感情を呼び覚ます音楽だった。フィギュアスケートの歴史に刻まれたプログラムだった。2012年当時、結弦はまだ子供だった。結弦は1994年12月生まれで、当時はまだ18にもなっていなかった。しかし既にコンプリートなフィギュアスケートを持っていた。彼はこれをアイスショーの世界でやっている。彼が理想とするフィギュアスケートを追求し続けているのだ。しかし、これは皆にとって理想のフィギュアスケートなのだ。

ジャンプが得意な選手が4回転ジャンプを6本跳んでも僕は別に構わない。これについて抗議はしない。ただし、技術についても注意を払って評価しなければならない。これはまた別のテーマだから、ここでは脇に置いておこう。しかし、もし4回転ジャンプを6本跳ぶために助走―ジャンプ―息継ぎ、助走―ジャンプ―息継ぎだけが延々と続くプログラムを滑ったなら、芸術的には何もないのは明らかだ。従って、演技構成点ではこの内容に妥当な評価が与えられるべきだ。このような代物が振付で8.0を貰うのはあり得ない。6点以下の価値しかない。Presentationで8.0もあり得ない、6点が妥当だ。マリニンの場合、僕の意見では現時点ではスケーティングの質は低い。この青年は片足ターン(氷上でエッジを回転させて方向転換すること)も満足に出来ていない。つまり、スケーティングスキルで8点を与えるべきではない。もし彼のスケーティングスキルが8点なら、埼玉で5位だったジェイソン・ブラウンには13点を与えるべきだ。
だから採点の運用にも大きな問題があるのは明らかだ。

注意して欲しいのは、間違っているのはシステムだけではない。マリニンのスケーティングスキルに8.0を与えたジャッジは何を見ていたのか?
6点に達するのも困難なスケーターにどうやったら8点を出せるのか?
マリニンが実際にどんな風に滑っているのか、見てもらいたい。
まだ若いし、これから上達していくことを願っている。ここは特定のフィギュアスケートの観念とマリニンを戦わせる場ではない。僕はマリニンの名前を挙げたけれど、例に挙げられる選手は他にもたくさんいる。
問題はそこではない。
やるべきなのは、技術面と芸術面の得点の比重を同じにし、この2つの要素をバランスを保つためのソリューションを見つけることだ。現在、このバランスは失われている。

人々は何故、羽生を愛するのか?
何故、羽生の公演を見るための行列が出来るのか?

もっと言えば、抽選があるのだ。羽生の公演のチケットを手に入れるには抽選に当選しなければならない。希望者は50万人を超える可能性があり、東京ドーム(おそらくミラノのサンシーロ・スタジアムと同じ規模だろう)ではアイスショーのような公演で使える観客席は35000席だから、希望者に対して抽選が行われるのだ。皆、喜んでチケット代を払う。


考えてもみてよ。フィギュアスケートの大会では3500人規模の会場が埋まらない。

僕は批判するためにこのような話をしているのではない。
血を吐くような思いで言っているのだ。
僕はアイスリンクで育った。
そして1982~83年以降に歴史を作った様々な世代のスケーター達を僕は全員見てきた。試合を追いかける人が常に傍にいたからだ。だから僕自身の問題のように感じているし、このような話をしなければならないことに困惑している。

しかし、敢えて問題を喚起する勇気を持たなければならない。このままではダメだからだ。
はっきり言って、時には審美的に醜いプログラムさえある。スペクタクルとして低レベルだ。リンクで多くのことが出来るスケーターも、今では4回転ジャンプを5本跳ぶことだけに専念している。何よりも技術的に議論の余地がある跳び方で。プレローテーションや、先程も言ったフルブレードアシスタンス等の問題だ。

現状に疑問を投じる時がやってきたと思う。
フィギュアスケートは変わらなければならない。このままではいけない。

G:これは視聴者である受益者としての質問だけれど、スケートファンが試合を見に行かなくなったのは、ジャンプが理解出来ないからなのか、それともより芸術的なものを見たいからなのか?

M:何だかんだ言って、フィギュアスケートの観客はスケーターが音楽に乗せて物語を話すスペクタクルを見に行く。だから、偉大なスケーターの資質とは、見る者を感情移入させられることだ。

例えば、音楽がヴィヴァルディの四季でもブルーノ・マーズでも・・・

D:ニューシネマ・パラダイスとか

G:AC/DCもあったね

M:そう、このようなジャンルを選ぶスケーターもいる。過去にはケヴィン・レイノルズを始め、多くの選手が選んでいたね。
しかし、曲が何であっても、スケーターはいつも同じことをやっている。
リンクを行ったり来たりしながらジャンプを跳ぶだけ。
4回転ジャンプだ。

G:確かに何かが足りないね

M:君は何を見た?
ジャンプ大会だ。

D:素人の意見だけれど、タイプの異なる演技を並べて比べたら興味深いかもね。より芸術性が際立つ演技と、よりアスレチック指向の強い演技の比較。

G:つまり、君の意見では、芸術点(演技構成点)でも150点に達するべきだと言うんだね。

M:僕は以下の考察を行うべきだと思う。
技術面が時代と共に進化するのは当然だ。より高難度になり、回転数も増える。
何故か?
同じブレードの付いたスケート靴でも、靴自体のパフォーマンスが少しずつ進化しているからだ。そしてオフアイスのアスレチックトレーニングの発達により、選手達は以前は不可能だったことを実施出来るようになった。
昨年製造されたスケート靴と今年製造されたスケート靴を履き比べても違いは分からない。毎年気付くような大きな変化ではないからだ。しかし、10年前のスケート靴と現在のスケート靴を履き比べたら、別のツールだと気付くはずだ。

つまり、技術の進化は不可避ということだ。
現在では、アクセルまでの全種類の4回転ジャンプを跳べる青年がいる。まだ一種類足りないけれど、いずれ成功させるだろう。
それなら、現在、実施可能なエレメントで獲得し得る技術点の最高得点を計算し、もしそれが150点なら、芸術的に完璧で他の選手にはない何かを氷上にもたらすことの出来る選手が、最高150点を獲得出来るよう、演技構成点の係数を引き上げるべきだ。
これで二つの得点の均衡は取れるようになる。

しかしこれで終わりではない。
演技構成点は正しく評価されなければならない。氷上で起こったことを知覚し、それが正確に得点に反映されなければならない。ステレオタイプの採点ではなく

D:バスケットボールでよく起こる3歩以上歩いているのに見逃されるようなもの?

M:技術面についてはそうだね。
技術的に正しくない跳び方で実施されたジャンプが、ジャッジパネルから+4や+5を貰っている。+5は技術エレメント(スピン、ステップ、ジャンプ)の加点の満点だ。これは技術点における問題だ。
技術点の採点に関しては、2023年の今現在、ソリューションは一つしかない。

テクノロジーだ。

つまり、ソフトウェアを使って、以下を判定出来るように設定する:
1)ジャンプの回転
これをベースに得点から減点する
2)フリップとルッツ。
ジャンプの入りのエッジ
ルッツならトゥを突いた時、トゥを突いていない方の足のエッジはアウトサイドでなければならない。フリップならトゥを突いていない足のエッジはインインサイドでなければならない。もしエッジが間違っていたら、そのジャンプはルッツまたはフリップではない。

そしてもう一つ問題がある。これらのジャンプは離氷前にブレードを使って氷上でほぼ一回転すべきではない。トゥを突くべき工程で、ずっとブレードでアシストしていたら、このジャンプはもはやルッツやフリップではなく、ループと呼ばれなければならない。
つまり人間の目では氷上で起こっていることを識別することは不可能と言うことだ。
罪ではない。起こり得ることなのだ。

しかし、これは、オリンピックや世界選手権のメダルが授与され、莫大な投資が必要なスポーツであり、冬季競技では初めてオリンピック競技になったスポーツだ。
フィギュアスケートは、他のどのウィンタースポーツより早くオリンピック競技になった。
男女混合の試合が行われた最初のウィンタースポーツが何か考えてみたことがある?

G:このスポーツだ

M:ジャンマリオが言うように、オリンピック2大会でフィギュアスケート競技が行われた。
女子のオリンピック出場が認められた最初の冬季競技は何だと思う?

D:フィギュアスケートだ。

M:そう、つまり、真剣さが求められる競技だということだ。
正直に言って、今現在、フィギュアスケートには深刻な問題がある。

僕はその理由の概要を急いで説明した。10時間に渡って理論することも出来るけれど、ここはその場所ではない。
このまま行けば、この競技の信頼性はますます失われていくという現実を理解しなければならない。
僕は特定のスケーターを批判している訳ではない。問題はそこではない。僕は卓越した技術と卓越した芸術性がバランスよく共存するスポーツを見たいのだ。

羽生は何か?
技術的万能と芸術的卓越性の融合。これが羽生なのだ。
僕は、羽生がやったことを他の誰かがやっているのを見たことがない。彼以前にも見たことがなかった。プルシェンコの名前を挙げる人がいるが、僕はプルシェンコを尊敬しているけれど、彼には羽生の半分のスケーティングスキルもなかった。プルシェンコには多大なカリスマ性があり、上半身のコントロール能力が卓越していた。しかし、2023年の今、プルシェンコが足で何をやっていたのか見て欲しい。別のタイプのフィギュアスケートを代表するプルシェンコを批判するつもりはないが、彼をもっとずっとコンプリートなアスリートと比べることは出来ない。プルシェンコのカリスマ性が好き、というのは分かるし、偉大なチャンピオンであることに議論の余地はない。しかし、プルシェンコ自身も言っているように、羽生はこのスポーツを遥か上の次元まで引き上げたのだ。このような明白な事実を隠すことは出来ない。
以上だ。

フィギュアスケートは危機に瀕している。
羽生が競技から引退した?
羽生の元に行き、競技システムの鍵を彼に渡して、こう頼むべきだ。
我々は問題に直面している。助けて欲しい。
君に任せる。
我々には別のルールと別のジャッジ育成システムが必要だ。
我々にはテクノロジーが必要だ。
君は我々より早くこれを理解し、このテーマについて論文を書いた。

D:何よりも、我々はアイデアを必要としていて、彼にはそのアイデアがある。

M:どの分野にも、他者より優れた一握りの人間がいる。そのことを認め、その人間から学ぶべきだ。
僕達の仕事でも同じことが言える。議論の余地はない。

羽生は現在のISU幹部より優れている。幹部というのは正しくないだろう。ルールを担当する技術委員会の責任者達と言った方が良い。僕がもしISUの会長なら、羽生を呼び、「皆さん、彼に任せて、皆さんは別のことをして下さい。必要ならイベントの企画とか。そうでないなら引退して下さい」と言うだろう。

D:会長がイタリア人だった以前なら、もっと迅速に直訴出来たのに。

M:勿論だ。
フィギュアスケートには常に問題があった。ルール改正の発端となった2002年の事件を忘れてはならない。

G:現在では問題は更に明白だ。僕は観客や視聴者の気持ちになって考えているけれど。

M:これが現状だ。いつも同じことばかり繰り返すようで申し訳ないけれど。
僕にとって重要なことなんだ。
世界選手権の男子シングルについて、割と良かったショートの後も、フリーの後も、コメントを投稿する気になれなかった。困惑状態にあったからだ。この困惑が解消されていくことを願っている。それだけだ。
過剰な要求ではないと思う。別の考察が出来るようになることを願っている。

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☆マッシさんがフィギュアスケートの競技を心から愛していることが伝わっています。
でも私がISUが一度解体して新しい別の組織が誕生するか、現在の役員を一掃して、完全に新しいメンバーで再出発でもしない限り、羽生君がISUに関わることはないと思います。
日本スケート連盟に関しても同じでしょう。
彼らも今のところ羽生君で荒稼ぎした貯金があり、それほど危機感を抱いていない気がします。スポンサーから次々に切られたり、主要大会さえ地上波で放送して貰えなくなったら少しは考えるかもしれませんが・・・

いずれにしても今の羽生君の頭の中では、彼が理想とするフィギュアスケートを追求し、それを普及するためのアイデアが溢れんばかりに湧き出していて、やりたいこと、やらなければならないことが多過ぎて、斜陽組織に構っている暇はないのではないでしょうか。
私的には、競技の世界の理不尽にこれほど苦しんだのだから、これからは自分の心の声に従って、自分のやりたいことを自由に、思いっきりやって欲しいです。
そしてそうして生まれてくるショーや演技こそがファンの見たいものなのだから。

出来れば、世界ツアーも視野に入れて欲しいなあ・・・
今日から奥州公演が始まりますが、欧州にも来て欲しい・・・

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu