Sportlandiaより「2021年3月11日~あれから10年」

もう10年になるのですね・・・
10年前のあの日、3月11日は、自分史の中で起源前と起源後ぐらいの差がある、私にとって人生観と意識が大きく変わった日でした。

マルティーナさんがこの日のために感動的なエッセイを書き上げて下さいましたのでご紹介します。

原文>>

マルティーナ・フランマルティーノ著
(2021年3月11日)

 

2011年3月11日から10年が立ちました。3月11日という日付には別の因縁もあります。
2020年3月11日、WHO(世界保健機関)は新型コロナウイルスはパンデミックであると宣言しました。従って、多くの人は現在、全世界を脅かしているこの問題を連想するかもしれません。

10年前にも問題がありました(言葉にするとあまりにも陳腐で、その重大さを伝えることが出来ません)。被害に遭ったのは(コロナウイルスに比べると)限定された少数の人々かもしれませんが、巻き込まれた数百万人に人々にとって壊滅的な出来事でした。この日、世にいう東日本大震災が起こり、これによって壊滅的な津波が発生し、福島原子力発電所が被害を受けました。

数年前に執筆しながら公開していなかった、この記事より遥かに長い原稿の一部を引用します。

現在の測定システムが確立された1900年以来、日本でこれまでに記録された中で最も強力で、世界でも4番目の規模に相当する海深24kmを震源とするマグニチュード9.0の地震が東北沖で発生しました。この地域はこれまでも激しい地震にさらされており、1978年にはマグニチュード7.7の地震が記録され、日本政府は建物の安全規制を見直しました。 2011年の地震は現地時間14:46に発生し、6分間続いた揺れの後、1時間の間にマグニチュード7.0を超える揺れが3度が続きました。一方、マグニチュード6.0を超える揺れは60回以上続きました。翌月からの数か月間における余震は900回以上にも及びました。地震は地球軸の傾きを17センチ動かし、日本の本土に当たる本州を東に2.4キロ移動させたと推定されています。 地震による影響の一つは巨大な津波の発生です。

時速750キロの速さで東北の海岸にぶつかると、波高は最大40メートルに達します。 この震災に関連して確認された死者は2万人に近く、2,500人以上が行方不明と報告されています港や発電所などの施設が被った被害は莫大でした。440万世帯がしばらくの間、電気無しの状態、150万世帯以上が断水になりました。被害を受けた建造物の中には福島原発のプラントも含まれ、大量の放射性物質が放出されたため、史上最悪の原発事故の一つと見なされています。福島周辺半径20キロメートル圏内の地域と、この半径外の幾つかの市町村を合わせて18万人以上の住民が保護するために避難させられました。内陸10 kmまで達した波によっても破壊された町に正式に分類され、この震災で最も大きな被害を被った都市の一つが仙台でした。

スケート界における最も明白な余波は、まず長野で3月21日から27日まで開催が予定されていた世界選手権がモスクワで代替開催(4月25日から5月1日)されたこと、そして横浜で開催されるはずだった国別対抗戦が翌年の同時期(4月17日)に延期されたことです。 ロシアでは、パトリック・チャンが小塚崇彦とアルトゥール・ガチンスキーを上回って最初のタイトルを獲得し、高橋と織田はそれぞれ5位と6位で大会を終えました。 直接地震による打撃を受けた国際レベルの唯一のスケーター、羽生結弦はそのシーズンの全日本選手権で4位だったため、世界選手権には出場しませんでした。

 

羽生結弦・・・
そうです。

地震のことは覚えています。原発への懸念や、亡くなった何千人もの見知らぬ人々に対して漠然とした遺憾の念を抱きましたが、私にとっては何か遠い世界の出来事でした。
そして今、私がこの震災をもはや遠い出来事ではなく、より身近に感じているとすれば、機会あるごとに被災地について語り、自身の大地に無数のプログラムを捧げ、金銭面においても自ら復興に貢献し、震災に関する無数の記事を読んでこの悲劇を肌で体験した人々の痛みを少しでも共有したいという気持ちに私を駆り立てた羽生結弦のおかげです。

これは私がこれまでに読んだ無数の記事の一つに過ぎません:

悲劇によって形成された津波の日本の子供達

一方、こちらはとりとめのない感情や考えを打ち明けるために使用された電話ブースについて語られています。私が数か月前に読んだローラ・イマイ・メッシーナの小説で知った場所です。

Japan’s tsunami survivors call lost loves on the phone of the wind | The Wider Image | Reuters

結弦は出版された2冊の自叙伝の一冊目「蒼い炎」の中で自身の体験を語っています。この2冊の本には購入する素晴らしい理由が二つあります。

一つ目はこではチャリティ本であり、印税は全額、アイスリンク仙台に寄付されることです。
彼はこのリンクでスケートを始め、閉鎖されていた2年ほどの期間を除き、地震の被害を受けるまでずっと彼のホームリンクでした。最初の「蒼い炎」が出版されたのは2012年4月でした。当時、結弦は将来有望なスケーターでしたが、まだそれほど勝っていませんでした。2010年世界ジュニア選手権で優勝、2011年四大陸選手権で銀メダル、数日前の地震初出場の世界選手権で銅メダル。将来の保証はありませんでした。彼以前に世界ジュニア選手権で優勝した33人のスケーターの内、半分以上に当たる18人が世界選手権またはオリンピックの表彰台に一度も上がることはありませんでした。残り15人の内、世界選手権または五輪で一度でも金メダルを取ったことがあるのはたった17人です。また、当時の日本には高橋大輔(当時、五輪銅メダル1個、世界選手権金メダル1個銀メダル1個)、小塚崇彦(世界選手権銀メダル1個)、織田信成(世界選手権最高4位、四大陸選手権金メダル1個)といった有力な先輩スケーター達がいましたから、日本チームにおける彼の立場も確かではありませんでした。また、フィギュアスケートはお金のかかるスケートですから、本の印税はトレーニング費用を支える重要な収入になったはずです。しかも、彼はこの時、練習拠点をアイスリンク仙台からカナダに移そうとしていましたから、費用は更に増えたはずです。それでも、数か月前から練習を再開したこのリンクに彼が印税を全額寄付し続けているのは、この場所が彼にとって如何に重要だったのかを物語っています。

二つ目はチャリティに貢献しつつ、美しい写真が満載の2冊の本を受け取ることが出来ることです。

本は日本語で書かれていますか?
確かに日本語ですが、それでも手に入れる価値があります。

そして私達に出来るささやなことと言えば、このページの青いボタンをクリックすると、被災地復興のために3円が寄付されます。無料で数秒で出来ることです。1日1回クリックすることが出来ます。

https://clickdonation.psc-inc.co.jp/page/east_japan/

困難な時期の後、結弦は4月に神戸で開催されたアイスショーで初めて観客の前で滑りました。

4月9日に神戸でチャリティーアイスショーが企画されたのです。神戸の街は約6500人の命を奪った1995年のマグニチュード6.9の地震の後、完全に再建されました。

このイベントで彼は終わったばかりのシーズンのショートプログラム、ホワイトレジェンドを披露しました。暗闇の中で目覚めた主人公が、自分の置かれた状況に戸惑い、葛藤し、己の進むべき道について迷い、最終的に誇らしげに翼を広げて、飛び立っていく、まるで彼自身が終わりの見えない旅に出発するように・・・そんな印象を与えるこのプログラムはまさにこの機会にピッタリな演目でした。ジャンプは完璧ではありませんでしたが、苦しみに掻き立てられるように彼は感情を爆発させ、自分自身の全てを出し尽くしました。リンクに入る前、彼は躊躇し、感情に戸惑いがあったとすれば、演技終了後、観客はスタンディングオベーションで彼を讃え、彼は涙を抑えなければなりませんでした。傷を癒すことの出来る安堵の涙でした。彼がアイスショーに出演しなければ、疑念が彼を悩ませ続けていたでしょう。しかし今、彼は人々に喜びを与えることで人々の感情に触れことができ、彼自身も喜びを受け取りました。そして自分の選択が正しかったことを理解したのです。最後に行った短いスピーチで、彼は地震の破壊力を振り返り、人生が正常に戻ることを祈ってやまないと説明し、こう付け加えました。

「何か前向きな力になれることを願いながら、一生懸命スケートをやりたい。例えささやかなことでも自分の役目を果たしたい」

神戸において彼は二次的な存在で、スターは彼より有名な他のスケーター達でした。しかしこのような瞬間における氷上での彼のあまりの存在感にアイスショーへの招待状が次々に舞い込み、その後の5カ月間、日本各地で60公演ものアイスショーに出演しました。

私はこのアイスショーのノーカット演技の動画を見たことがありませんし、存在するのかどうかも確かではありません。私はここに投稿する動画のようにプログラムの断片しか見たことがありません。

夏になると結弦は再び自分のリンクで練習出来るようになりました。そして9月、シニア2年目のシーズンが始まりました。

新しいショートプログラムは アレクサンドル・スクリャービン作曲のエチュードOP.8第12番嬰ニ短調『悲愴』。まるで平常の海の波のような静かな部分と、襲い掛かる津波を彷彿させる激しい部分が交差する曲調は、苦悩、そして平安の探求といった、彼がこの時期に味わった複雑な感情を表現するのに適していました。彼は海を彷彿させる青系グラデーションの衣装を選びました。

このプログラムで最も高い得点を獲得したのは、彼がグランプリ大会初優勝を飾ったロステレコム杯でした。

3月には世界選手権に初めて出場しました。ショートプログラムは7位、彼にとって満足の行く順位ではありませんでした。彼と同じように、または彼以上に震災に苦しめられた大勢の人々が彼を信じているというのに、どうしてこのような順位に満足出来ますか?彼らを失望させることなど考えられません。

ショートプログラムのミスに不満な、最も重要な大会でのデビューでナーバスになり、怒涛のアイスショーで早く始まった長いシーズンの疲労が溜まり、万全な体調ではなかった羽生は目を閉じてリンクの中央に向かい、ここ数か月間に彼が受け取った応援をエネルギーに変えるために集中しました。

これがそのプログラムです。

エキシビションではホワイトレジェンドを披露しました。競技プロとして生まれたプログラムですが、2011年3月以降、彼のシニア初シーズンのショートプログラムは、常に震災と、悲劇の後、より良い未来に向かっていくための希望、というテーマが込められたプログラムになりました。

ホワイトレジェンドが震災前に生まれたプログラムだとすれば、震災を思い出し、絶望から希望まで震災に纏わるあらゆる感​​情を表現するために特別に作られたプログラムも数多くあります。その最初のプログラムは宮本賢二が振り付けた『花になれ』です。

宮本も16歳の時に1995年に阪神淡路大震災を経験しており、近年日本を襲った2つの最悪の地震に同じ年齢で関わった、という事実は、彼らの間に一種の親近感を生み出しました。共に同じ無力感、苦しみ、絶望感を味わい、地震後、結弦が氷上に戻った神戸のアイスショーが企画されたのは宮本のおかげでもありました。

彼を知らない人は、最初に投稿した神戸アイスショーの動画を見て下さい。結弦がリンクインする直前、彼の背後に見える人物が宮本です。印象的だったのは2人の挙動です。共に苦しみを味わっていますが、宮本が俯いていたのと対照的に、結弦は・・・この先の未来がどうなるのか予想もつかず、この場にいてもいいのか、という戸惑いすらあった結弦の両眼は天を仰いでいるのです。

彼らのコラボレーションからは常に美しいプログラムが生まれます。曲も素晴らしいです。もし歌詞が英語なら、欧米の新聞はこのプログラムを絶賛し、その奥深さについて語ったでしょう。しかし、日本語は壁になります。歴史的にヨーロッパ人と北米人によって支配されてきた競技では、欧米メディアは日本で何が起こっているのかを敢えて見ようとしないのです。 試合の結果は一目瞭然で、それについては語りますが、特定のパフォーマンスの奥深さは、単純で一目で分かるものしか見ようとしない人々には理解出来ないのです。

試合と言えば、羽生は2012年秋に自身2度目となるNHK杯に出場しました。
結弦はいい演技をしなければという強い思いを抱いていました。彼の選択が正しかったことを示すためだけでなく、開催地が彼の出身県である宮城だったからです。会場は2011年の震災の後、遺体安置所として使用されたセキスイスーパーアリーナでした。震災の被害を受けた地域で開催される初めて開催される重要な競技会であり、彼には特別な思いがありました。

結弦はこの大会で自身2度目となる世界最高得点を叩き出しました。
これがエキシビションの演技です。

最後のスピンでは宮本は結弦が入れてがっていたスピン(彼の得意なスピン)をプログラムの世界観に反していると言って入れませんでした。代わりに最後の旋律と共に優美に広がる両腕が、開く花びらをイメージさせるフライングキャメルスピンを提案しました。

結弦が一緒に歌っているのがはっきりと分かる瞬間が幾つもあります。指田郁也が作詞した歌詞も重要です。

歌詞は勿論、インタビュー、新聞記事、そしてユヅに関するあらゆるマテリアルを翻訳して下さる方には心から感謝しています。これは2014年スター・オン・アイスにおける花になる(歌詞英訳字幕付き)です。

2014年の数か月前、結弦はもはや巨大なポテンシャルによって将来有望なスケーターではなく、オリンピックチャンピオンになりました。エキシビションではホワイトレジェンドを披露し、全世界に向けて、彼の方法で地震について語りました。
彼はオリンピックという舞台の重要性をよく知っていました。荒川静香は2006年にフィギュアスケートで日本初の五輪金メダルを獲得した時、大会後のプレスカンファレンスで自分が長い期間練習していた仙台のリンクが閉鎖されてしまったことに対する遺憾の念を表明しました。まさに経済難で閉鎖された結弦のリンクでした。そして静香の訴えによって2年後、リンクは再開されたのです。
被災地復興について語り、自身の貢献について「強い無力感」と表現した後、結弦が最後のエキシビションで演じたプログラムは彼自身の再生の始まりでした。

こちらはオリンピックで彼が滑った全てのプログラムをまとめた動画です。ホワイトレジェンドは19:26から始まります。

オリンピック前、結弦はプログラム「Story」でも宮本とコラボレーションしています。このプログラムは21世紀初めのヒット曲の一つ、AIが歌う楽曲に振付されました。

ラブソングですが、互いの強さを見つける、というテーマについても語られており、時間が痛みを和らげ、主人公を照らす太陽に希望を見出して曲は終わります。

最も有名なのは2013年グランプリファイナルの演技です。彼がシニアで優勝した最初の主要大会でした。しかしここでは歌詞英訳の字幕が付いた夏のファンタジー・オン・アイスの演技動画のリンクを貼ります。結弦が滑るボーカル入り楽曲は素晴らしく、歌詞も重要なのです。

この時期に、震災中そして震災後の結弦の体験と、スケートをするために故郷を離れたことに対する罪悪感、他の被災者達を助けられない無力感について語られるこの素晴らしいドキュメンタリーが放送されました(字幕を付けてくれた方に感謝します)。

私はこの動画を何回見たでしょうか?
5回?6回?
そんなことは重要ではありません。いずれにしてもこの記事を書くために動画をもう一度見た時、既に内容を知っていたにも拘わらず、彼が石巻の学校に入っていくところで私は泣き出してしまいました。

これは別の素晴らしいドキュメンタリーです。数日前、結弦が訪れた家屋が取り壊しになるという記事を読みました。安全上、これ以上放置しておけなかったのだと推測され、分かりますが、残念です。

この2つのドキュメンタリーの間、2014年夏から2016年1月の間、結弦は中国杯の事故や翌年の世界最高得点連発といった選手として並外れた時期を過ごしました。確かにアスリートにとって最も重要なのは試合ですが、この記事のテーマは震災ですので割愛します。2014-2015年シーズンには2つのエキシビションナンバーを披露しました。

1つ目は「花は咲く」です。

作曲は菅野よう子で、「花になる」を滑っていた時期に結弦と固い友情で結ばれた指田郁也が演奏しました。地震による死者を追悼し、復興を支援するために制作されたこの歌は、著作権使用料が復興支援のために寄付されており、全国テレビやラジオ放送による震災に捧げられた番組を通して広まりました。 結弦は振付を考えた阿部奈々美と話し合い、彼は過去の意識から今の現実、そして最終的に決然と立ち上がる、という考えを抱いて未来に視線を向けるまで、演技に込めたい無数の感情について彼女に説明しました。プログラム冒頭、羽生は氷上に落ちた折れた花に気付きます。花は被災者達を象徴しています。彼は花を拾い上げ、祈りを捧げます。

結弦はNHK制作のスペシャル番組の中で本田武史(2002年と2003年世界選手権銅メダル)、荒川静香(2006年五輪金メダル、2004年世界選手権金メダル)、鈴木明子(2012年世界選手権銅メダル)と共に「花は咲く」を演じました。本田は福島県出身です。荒川は長年仙台で練習し、鈴木は仙台大学を卒業しました。動画にはプログラム撮影時の映像も数分入っています。こちらはNHKスペシャルで放送された演技です:

もう1つは宮本賢二が振り付けたThe Final Time Travelerです。阪神淡路大震災17年周年に際して日系オーストラリア人の作曲家で歌手、サラ・オレインによって作曲された楽曲です。

2016-2017年シーズンのエキシビションナンバーでした。

結弦が自分が伝えたいメッセージを宮本に説明し、彼に助けを求めたことを思い出すために、私が以前に書いた文章を引用します。

宮本は長いリサーチの後で、ヒーリングミュージックの作曲家、松尾泰伸が地震の被害を受けた幾つかの地域で撮影された動画を見た後に作曲した長さ10分の曲、「Requiem for the Great East Japan Earthquake 3.11」を彼に提案しました。

表現するのが難しいピアノソロ曲ですが、羽生は即座にこの曲に魅せられ、松尾に会って曲の意味について彼と議論した後でエキシビション曲を抽出し、「天と地のレクイエム」と命名しました。この新しいタイトルの選択には、このプログラムを特定の震災(それが如何に被害の大きな災害だったとしても)から切り離し、彼が巻き込まれた震災以外の災害に遭った人々も自分の演技で抱擁しようという意図が込められていました。

全ての動きは雷のように力強く、刃のように鋭く、同時に流麗で見事な調和を生み出していました。衝撃、絶望、無力感という最初の感情が、闘いたいという願望と希望へと変わっていきます。何故なら苦しみの中から前に進むための力が湧き起こってくるからです。

他のプログラムで彼が観客とコネクトし、演技を見ている人々とコミュニケーションを取ろうとしているとすれば、 このプログラムでは完全に自分自身の世界に没頭しています。演技の最後で微笑むだけでなく、感極まって涙するほどに・・・

これは2016年世界選手権の演技です。この時、彼は左足に激痛を抱えており(彼のリスフラン関節損傷はかなり悪化していました)、これが最後の演技になるのではないかと怖れていました。いつもよりずっと激しい、驚異的な感情の爆発は自分自身の将来への疑念に由来していました。

結弦の注意を「ノッテ・ステッラータ」(The Swan)に向けさせたのはタチアナ・タラソワでした。デヴィッド・ウィルソンの振付は、辛い体験も含めて彼が生きた全ての体験を優しく融合し、己の翼を再び開いて前へ進んでいきたい、という感情を表現しています。

最も有名な演技は平昌オリンピックのエキシビションです。足首の負傷にも拘らず、結弦は2個目のオリンピック金メダルを勝ち取ったばかりでした。
ホワイトレジェンドの若い白鳥は成長し、飛び立ちました。彼はもはやこの瞬間における最強のスケーターというだけでなく、全てを超越しており、彼の軌跡には伝説と同じ鮮烈さがありました。

リンク外においても、彼の故郷の状況を万人に知らせ、(彼が個人的に寄付しないところでは)経済効果をもたらすための結弦の尽力はずっと続いています。例えば、連盟が東京で開催したがっていた自身の凱旋パレードを彼は仙台で行うことを望みました。こうして集まった大勢の観光客によって多大な経済効果が彼の地元にもたらされたのです。

震災に捧げられた最後の結弦のエキシビション(一番最近に考案され、私達が最後に見たプログラムです)は「春よ来い」です。1994年に松任谷由実が作曲した楽曲を清塚信也が演奏しました。1995年にNHKで放送された同名の連続ドラマの主題歌であり、2005年から2011年にかけて中学2年生の名曲集に登場したことから、日本では非常にポピュラーな曲です。またしても震災が彼のスケートの中に入りました。

「ホワイトレジェンド」、エチュードOp.8第12番嬰ニ短調『悲愴』、 「天と地のレクイエム」では大惨事による混乱と苦しみを表現し、「花になれ」と「花は咲く」では前に進むための理由を模索し、「ファイナルタイムトラベラー」と「ノッテ・ステッラータ」では壊れたものの断片を修復するという課題について語っています。一方、デヴィッド・ウィルソン振付の「春よ来い」は未来への希望です。

これは2020年12月の全日本選手権を締めくくるメダリスト・オン・アイスでの演技です。

震災は10年前に起こりました。私が読んだ資料や記事によれば、再建への道のりはまだ遠いようですが、暗い時期を光で照らし続け、あなたを正しい道に導く誰かがいるのです・・・

 

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☆記事内に投稿されている英語の記事「悲劇によって形成された津波の日本の子供達」は初めて読みましたが、衝撃を受けました。

当時十歳だった子供達はもう二十歳になっているのですね・・・

被災して大変な目に遭った私の友人は(とてもポジティブで気丈な人ですが)この時期になるとニュースで震災の映像が頻繁に流れるので当時のことを思い出して辛くなるそうです。しかし、同時に震災のことを忘れて欲しくない、風化させたくない、という思いも強いと言っていました。

ドキュメンタリーの中の、羽生君が家族と共に数日間を過ごした、当時と同じように再現された学校に入っていき、当時のことを追体験する場面は・・・何度見ても胸が締め付けられます・・・

イタリアでは幾つもの福祉団体や文化協会が、今でも現地で取材を続けて被災地の現状を伝え、様々な形で支援活動を続けています。

例えば、こちらの福祉団体は福島の子供達を夏休みの間自然豊かなイタリアの海に招待する、という活動を続けています。

Soggiorno | Orto dei sogni

ミラノとローマ、そしてハイレベルな日本語学科のあるヴェネツィアのラ・フォルカリ大学、ボローニャ大学、ナポリ大学では有志によるチャリティー企画が毎年行われています。

今年はこんなご時世ですので、全てオンラインですが、朗読会や講演会、展覧会など、様々なイベントが開催されます。
こちらはその一つです:

福島に生きる、福島を生きる- NipPop

東日本大震災から10年の復旧・復興

 

私もボランティアでインタビューの通訳をしたり、資料を翻訳したりすることがある関係で、今も避難生活を送っている方々のお話を聞かせて頂く機会があります。

そして大変な状況だと想像されるのに、強く明るく前向き生きている皆さんの姿に感動させられる一方で、復興の道のりははまだまだ遠く(特に福島や沿岸部)、見通しが全く立っていない地域すらある、という現実も突き付けられます。

東京オリンピックに莫大な投資をする必要性と意味は本当にあったのでしょうか???😞

 

最後に、これは震災には関係のないエピソードですが、最近出会った素敵な言葉をご紹介します。

2月初めのこと、一人のイタリア人女性から娘宛のメッセージを日本語で、筆で書いてもらえないかと頼まれました。

彼女のお嬢さんはボローニャ大学で日本語を専攻し、8年前に日本に留学しました。そして日本の文化と心に魅せられ、1年間の留学で人生観がすっかり変わったそうです。しかし、その数年後、難病に犯されたことで彼女の人生は一変し、20代の若さで重い障害を背負うことになりました。

再び訪れることは叶わなくなってしまったけれど、日本を愛し続けるお嬢さんに母親が贈ったのはこのような言葉でした:

昨日が奪ったものではなく、明日が与えてくれるもののために生きなさい。

 

この言葉をイタリア語で伝えられた時、「今」を精一杯生きて欲しい、という母親の強い思いに心を打たれました。

そして最近、リモート通訳で福島の方のお話を聞いた時(企画者はイタリアの羽生君ファンが運営する日本文化協会です)、前向きに生きる彼女の姿からこの言葉を思い出しました。

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu