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Gazzetta dello Sportより「羽生、日本からやってきたスケート靴を履いた芸術」

これはフリーの翌日2月18日のガゼッタ紙の記事です 2018OG_GS

誰にも真似出来ないスタイルで再びオリンピックチャンピオンに輝く
男子では66年間誰も成し得なかった偉業

 

アンドレア・ブオンジョバンニ
(平昌現地取材)

男子シングルではオリンピック二連覇を達成する選手が現れるまで66年待たねばならなかった。
羽生結弦の偉業はオスロ大会(1952年)とサンモリッツ大会(1948年)で金メダルを獲得したアメリカのディック・バトンに並ぶものだった。彼ら以前に連覇を達成したのはスウェーデンのギリス・グラフストローム(1920年/1924年/1928年)とオーストリアのカール・シェーファー(1932年/1936年)だけだが、遥か昔のモノクロ写真の中の出来事である。

結弦は23歳で歴史から伝説になった。
彼はカラーで生き生きしている。現世界チャンピオンでもある彼を史上最高と評する論調は多い。

お祭り
結弦がいるとアイスアリーナは満席になる。スペクタクルの中のスペクタクル。
確かに日本と韓国は犬猿の仲だが仙台の青年は世界を繋ぐ。

グローバル化を超えて:芸術の完璧な形である羽生は皆に愛されている。
彼の出番になると会場中で日の丸が振られ、演技が終わるとリンクは黄色い絨毯に変わる。
彼の幸運のお守りである何十匹(あるいは何百匹?)ものウィニー・ザ・プーの雨が降る。
一掃するにはプレゼントを拾い集めるフラワーガールが無限数必要だ。

そしてその中心に彼がいて、感謝し、感動している。
まだショートで彼に次ぐ順位だったスペインのハビエル・フェルナンデスと同国の宇野昌磨が残っていたにもかかわらず、彼がタイトルを確かに掴み取ったことは明白だった。

 

何という試合
技術的には彼のフリープログラムは完璧ではなかった
4トゥループと3ルッツの着氷が少し乱れた。

しかし結弦が11月に右足首を負傷してからずっと練習出来なかったことを考慮しなければならない。彼は表舞台から姿を消し、オリンピックの団体戦にも参加せず、そのコンディションは疑問視されていた。
しかし彼はそんな疑問を一掃してみせた。

今日、リンクの支配者は一人だった。
もっと深刻な打撃からでも立ち直れることを見せたことのある男。

2011年3月11日に日本の一部の地方を襲った地震と津波は彼の家族にも大きな打撃を与えた。強い揺れが発生した時、彼が練習を行っていたホームリンクは閉鎖されてしまった。

少年には強い個性があり、氷上では巨人になる。
この世のものとは思われないほど神々しく、帝王のような威厳があり、カリスマ性がある。

今いる場所が相応しい真のチャンピオン。
これら全てが東洋の少しミステリアスな魅力に包まれている。
彼は感動すらもコントロールしているように見える。そしてある瞬間、それを一気に解き放つ。

間違いなく彼の滑りは唯一無比で、比較できる選手は存在しない。

 

人物
足首の怪我と彼の練習拠点であるリンクを破壊した2011年の大震災を乗り越えた。

 

その他の選手達
宇野昌磨は僅か2点足らずの点差でスペインのハビエル・フェルナンデスを逆転し、日本選手によるワンツーフィニッシュになった。トロントのブライアン・オーサーの元で羽生と共に練習するスペインのフェルナンデスはフリーで同じジャンプを跳び過ぎて4位に終わった2014年ソチ大会の悪戯をリベンジし、母国に史上初のこの競技の五輪メダルをもたらした。忘れられない朝だった。

中国のジン・ボーヤンの素晴らしい銀メダル。5本の4回転ジャンプをクリーンに決め、技術点127.64点という前例のない驚異的な得点でフリーは1位(羽生さえも上回っていた)だったアメリカのネイサン・チェンはショートプログラムの17位から5位に浮上した。

イタリアの19歳、マッテオ・リッツォは魔法のオリンピックでフリープログラムもクリーンに滑り、ショートより順位を2つ上げた。フリー19位で、最終順位は今後に繋がる21位だった。

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☆ガゼッタのアンドレアさんはニースのロミジュリに衝撃を受けて以来、羽生君の成長を温かく見守ってくれているようで、いつも温かい良記事を書いてくれます。
11月以来、世界中のどれだけ多くの人が羽生君を待っていたことでしょう。
ファンだけでなく、解説者もメディアもスケート関係者もISUのジャッジさえも・・・

 

Published by Nymphea

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち