Sportlandiaより「お誕生日おめでとう、ユヅル!」

羽生結弦イタリアンFBファングループの写真&メッセージ企画に参加していたマルティーナさん、ご自身のブログでも素敵な祝福の記事を書いて下さっていました。

原文>>

マルティーナ・フランマルティーノ著 (2020年12月6日)

一人生前、私は試合を通して羽生結弦のキャリアを振り返る旅を始めましたが、ある日立ち止まりました。それはプログラムを見るのを止めたからではなく、今の私はジャッジや採点システムやフィギュアスケート史のスキャンダルに関する記事の執筆に膨大な時間を奪われており、やりたいことを全て実行するのは無理だからです。でも今日はこうした不快な話題は全て脇に置き、彼と共に彼のお誕生日を祝福します。

この写真はyuzuecoに頼まれ、彼女の動画のために秋に撮影しました。ご存じない方のためにご紹介しますが、背景に聳えているのはミラノのスフォルツェスコ城です。プーその他を留めているリボンやピンが見えないようにカードを配置するのはかなり大変でしたが、なんとかやり遂げました。写真を撮影するために私は地面に座りました。そうしている間、私の耳には背後から近づいてくる非常に重い足音が聞こえていました。私はシャッターを切った後、地面に座ったまま、ようやく足音の方を振り返りました。私の頭上に馬に乗ったカラビニエーレ(国家治安警察隊の騎兵)が迫っており、彼は興味を引かれたようでユヅルについて尋ねてきました。その後、私は自転車の乗り、ドゥオーモ広場に移動しました。

この写真を撮影した時、私は段の上に立っていて、少し不安定な体勢でしたから、ピントは最適ではありませんし、背景に歩いている人が映り込んでいますが、そのことに気が付いたのは、既に「セット」を片付けた後でした。世界中のあらゆる場所の人々にとって、彼が如何に大切な人であるかを証明し、思わず微笑みたくなるメッセージカードと祝福はさておき、彼の誕生日を祝福する最高の方法は、彼の驚異的な旅路を振り返ることでしょう。

貴重な動画を投稿してくれた方に感謝するために、出来ればYoutubeで動画を視聴して下さい。

2004年:全日本選手権(この場合ノービスB)に初出場。この時、最年少の9歳でした。当然、優勝です。この頃から厳しい練習を積まなければ勝てないことを彼は既に理解していました。ノービスやジュニアの大会も、そしてオリンピックも。

2007年、全日本ノービスAで出場2度目にして優勝しました(前年の大会で銅メダルだったのは、ホームリンクが経営難で数年間閉鎖されたためです。2006年のオリンピックで金メダルを獲得した荒川静香の尽力により、リンクはようやく営業を再開しました)。前シーズン同様、この成績によって全日本ジュニア選手権の出場権を得ました。ショートプログラム7位、フリープログラム1位で銅メダルでした。

理論上、全日本ジュニアの表彰台に乗った選手は全日本シニアへの出場権も与えられるはずですが、あまりにも若過ぎたため、彼の代わりに4位の選手が全日本に出場しました。既にノービスカテゴリーのタイトルを総なめにしていた結弦は翌年から直接ジュニアカテゴリーで競技することになりました。このシーズン、日本には世界ジュニア選手権の出場枠が一つしかありませんでしたから、出場するには全日本ジュニアで優勝しなければなりませんでした。絶対にこれが必要、という状況に追い込まれた時、大抵の場合、結弦はそれをやってのけます。初めて全日本ジュニア王者のタイトルを手に入れました。この全日本ジュニアの動画を見つけることが出来ませんでしたので、全日本シニアの動画を挿入します。初出場、当然全選手中最年少だった彼は8位に入りました。

2009-2010年は彼が国際レベルで注目され始めたシーズンです。前年、彼は初出場のジュニアグランプリ大会で5位に入りました。13歳という年齢を考えると大した結果ですが、このシーズンの彼はまさに無敵でした。出場したジュニアカテゴリーの全ての大会(グランプリ2戦、ファイナル、全日本、世界選手権)を制しました。

2009年のジュニアグランプリファイナルは、今年達成されたジュニアとシニアの全冠達成、スーパースラムの最初のタイトルでした。男子シングルでこの快挙を達成したのは彼一人だけです。

ジュニアファイナル優勝は当時の最年少記録を更新しました(この記録はスティーブン・ゴゴレフに更新された2018年まで9年間続きました)。このシーズン、彼が勝たなかった唯一の大会はシニアの全日本選手権で、15歳になったばかりの結弦は7位でした。彼の年齢と当時の日本男子のレベルを考えると並外れた結果です。翌年、スーパースラムの2つ目のタイトルとなる世界ジュニア選手権を制しました。

ジュニアで全勝した後、彼はどうしたでしょうか?数カ月前にシニア参戦に必要な年齢に達していた彼は、シニアに上がりました。ソチの金メダルが欲しいなら、ジュニア選手の間でこれ以上時間を無駄にしている場合ではありません。例え負けても、もっと強い選手達と対戦しなければなりません。最初の試合はNHK杯でした。フリーでは試合で始めて4回転ジャンプ、トゥループを成功させました。

全日本選手権は4位で、日本スケート連盟は結弦を彼にとって初めてのISUチャンピオンシップとなる2011年四大陸選手権に派遣しました。彼の世界が完全に変わってしまう前の最後の大会でした。この大会で彼は銀メダルを獲得します。

ジュニア世界選手権で優勝してからちょうど1年後の2011年3月11日、16歳の結弦は史上最も壊滅的な地震の一つを経験します。

これは私がインターネットで見つけた膨大な数の動画の一つに過ぎません。映像を見るだけでも恐ろしいのです。この瞬間、この場所にいた人々が味わった恐怖は如何ほどのものだったでしょうか。震災後の数日間、そして数か月間は彼にとって苛酷なものでしたが、結弦はこの状況を乗り越え、以前よりも更に強くなったのです。

グランプリ初戦の中国杯ではミスを連発し、4位でした。グランプリファイナルに進出するには、優勝しかありませんでした。そして彼はどうしたでしょうか?腰を負傷していたにも拘らず(最近、彼の整体師である菊地晃氏が明かすまで、私達はこの怪我のことを知りませんでした)ロステレコム杯でハビエル・フェルナンデスを0.30点差で上回って優勝しました。

ファイナルでは4位に甘んじますが、彼のフリープログラムは注目せずにはいられないプログラムの一つでした。

全日本選手権で3位に入り、初めて世界選手権の切符を掴みました。しかし、試合前の公式練習でジャンプを着氷する足である右足首を負傷しました。このため、コンビネーションジャンプを体力のある前半に移動しますが、セカンドジャンプが2トゥループになり、最後のルッツもダブルになってしまいます。

そしてフリーです。満場一致でInterpretation of the musicで10点満点に値するプログラムがあるとすれば、この時のロミオはまさにそのプログラムでした。しかし、当時は10点が出ることはほとんどありませんでしたし、彼はまだシニアデビューしたばかりの少年でした。今では得点はインフレーションし、独自の方法で割り当てられています。

2位のフリーは彼に銅メダルをもたらしました。まだまだ不十分です。結弦は更に成長するために、カナダに移住しました。仙台では彼は最強のスケーターでしかから、誰かと競い合うことは出来ませんでた。そして震災の後も同じアイスリンクでしたから、英語がほとんど分からず、喘息によって新しい気候に適応するのは簡単ではなかったにも拘らず、彼は新天地に向かうことにしたのです。

2012年フィンランディア杯では初めて4サルコウを成功させました。

それからは、最年少記録だけでなく、歴史を塗り替え始めます。スケートアメリカのショートプログラムでは自身初となる世界最高得点を叩き出しました。

フリーは大遭難で最終結果は2位に甘んじますが、彼は常にミスから学習する能力があるのです。NHK杯ではショートプログラムの得点を更に上げ、2度目の世界最高得点を樹立しました。

ここまで競技プロだけを投稿しましたが、エキシナンバーも並外れています。これは彼の大地に捧げるプログラム、「花になれ」です。ネットで探せば、結弦によって演じられた数々の日本の曲の歌詞英訳を見つけることが出来ます。どの曲の歌詞も素晴らしいですから、読む価値があります。

グランプリファイナルで結弦は銀メダルを獲得します。彼が初優勝を飾ったNHK杯から全日本にかけての時期、彼は早稲田大学の入試に合格します。グランプリファイナルの間には急病(おそらく食中毒)にも襲われました。

四大陸選手権では最悪のフリーの後、再び銀メダルを獲得しますが、彼の顔をよく見ると、目の上にドアがぶつかって負った怪我を処置した絆創膏が見えます。私が読んだ情報によれば、かなり血が出たそうで、フリーの数時間前に起きたこの出来事は、間違いなく彼の集中力を奪ったでしょう。また身体面において、演技にどれほど影響を与えたか分かりません。

そしてその後・・・その後、私達は結弦が結弦である、もう一つの証拠を目の当たりにすることになります。彼はインフルエンザに罹ります。これは誰にでも起こることで、仕方がないですが、練習を再開した彼は遅れを取り戻すために、練習でやり過ぎて左膝を捻りました(この時、ブライアン・オーサーはナム・ニューエンに帯同して世界ジュニアに行っていて不在でした)。

しばらくの間、練習を中断しなければならず、その後、ペースを落として練習を再開しました。世界選手権のショートプログラムでは複数のミスがあり、9位でした。彼にとっては受け入れがたい順位です。翌年はオリンピックがあり、この世界選手権は五輪出場枠が決まる大会であり、特に彼は全日本王者として、日本に3枠を持ち帰る責任を強く感じていました。公式練習では右足首を捻挫します(あれから数年経った今、彼の右足首を支えているのは、靭帯ではなく意志の力ではないかと私は疑っています)。

彼は良い結果を出さなければなりません。彼に対して最も厳しい批評家は彼自身なのです。妥協は許されません。従って痛み止めを服用し、両足共に最悪の状態でこのフリーを滑りました:

フリー3位、最終順位4位、後にも先にも彼が表彰台に上がらなかった唯一の世界選手権です。

オリンピックシーズン、彼はグランプリ2戦ともパトリック・チャンと対戦します。彼は負けましたが、その間に学習し、グランプリファイナルでは自身3度目となる世界最高得点を叩き出しました。

フリーでも自己ベストを更新しました。大会を制し、絶好調のチャンをショート、フリー両方のプログラムで上回ったことは大きな自信になりました。スーパースラムに向けて3つ目のタイトルでした。

全日本選手権で昨季に続いて二度目の優勝を飾り、オリンピック・デビューとなった団体戦で、出場選手中最高のショートプログラムを滑ります。日本は団体戦5位に終わります。男子シングルの試合と共に伝説が始まります。ショートプログラムで彼は100点の大台を消えた史上初のスケーターになりました。自身4度目の世界最高得点で当然首位に立ちました。

フリーは完璧ではありませんでしたが、フリーでも彼は1位でした(彼を批判する人達は全員そのことを忘れているようですが)。結弦は両方のプログラムで勝ちました。彼のフリーの得点178.64を上回ったことがあるのは、パトリック・チャンの4つのベストスコア(彼は結弦のオリンピックの得点より低い169.41で世界選手権を優勝しています)、高橋大輔の自己ベスト、そして結弦自身のグランプリファイナルの得点だけです。トータルスコア280.09点より高い得点は、チャンの2つのベストスコア(彼は267.68点で世界選手権で優勝しました)と彼自身のグランプリファイルの得点だけでした。
確かに4サルコウで転倒し、3フリップを転倒と判定され(私はスケーターがもっと体勢を崩しているにも拘わらず、転倒と見なされなかったジャンプを見たことがあります)、コンビネーションのサードジャンプはカウントされませんでした。だからどうだと言うのです?

当時はこれでも途方もない高得点でした。

ここで短い日本語のレッスンを挟みましょう:

Katta?
勝った?

新しい単語を覚えることは誰にとっても有益なことですよね?何時、使う機会があるかは分かりませんが。

オリンピックはオリンピックです。この時は誰もスーパースラムのことを考えていませんでしたが、この勝利は彼に4つ目のタイトルをもたらしました。エキシビションでは彼のシニア初シーズンのショートプログラムだった「ホワイトレジェンド」を披露しました。彼が震災後初めて観客の前で滑った神戸のアイスショーで演じたプログラムでした。このアイスショーは断片だけで完全な動画を見たことがありません。オリンピックのエキシビション動画も見けるのも難しいですので、先ほど投稿しなかった団体戦ショートを含む彼の五輪プログラムを全部まとめた動画を貼ります。ホワイトレジェンドは19:26からです。

世界選手権。ショートプログラムではミスがあり、追う立場になりました。ここでも彼は万全なコンディションではありませんでした。テニス選手、ステファン・エドベリのファンとしては、試合後に背中を抑えていたあの手に気が付かない訳がありません。滑ってる間、誰も言及していませんでしたが、彼は痛みで顔をしかめていました。

町田樹を0.33点差で上回り、世界選手権で初優勝を飾りました。重要な大会でハビエル・フェルナンデスと共に表彰台に上がったのもこれが初めてでした。スーパースラムに向けて5つ目のタイトル。これで残すは四大陸選手権だけになりました。

 

2014-2015年シーズン前シーズン、結弦はタイトルを総なめにしました。彼以前に同シーズンにファイナル、世界選手権、オリンピック、ナショナル選手権を全て制したことがあるのは、アレクセイ・ヤグディンだけでした。ヤグディンは欧州選手権でも優勝しました。一方。結弦は四大陸選手権に出場しませんでした。ヨーロッパの選手の方が日程的に恵まれています。いずれにしても同シーズンでの四冠達成は途方もない快挙です。皆が結弦がこのシーズンを支配すると思っていました。

ところが・・・その後、起こったことをどう形容すればいいでしょうか?私はこの動画を後になってから見ました。私はこの1年後のNHKで杯で結弦のファンになり(それ以前にも何度か彼の演技を見たことはありましたが、どういう訳か彼のベストの演技はいつも見逃していました)、その後、Fanyuになりました。ですから、事故を目撃し、それからしばらくの間、永続的な後遺症があるのではないかと恐れていた人達のような苦悩は味わいませんでした。

まず事故の動画です。初めて見る人は注意して下さい。本当に衝撃的な映像です。氷上で2人の選手が衝突する映像は何度か見たことがありますが、これほど酷い事故ではありませんでした。

彼にとってシーズン初戦でショートは2位でした。もしフリーを棄権すれば、グランプリファイナル出場の可能性も消えました。彼は滑りました。彼はおそらくジャンプを降りれないこと、しかし回転し切ることが出来ればある程度の得点を稼ぎ、威厳ある順位で大会を終えられることを知っていたのかもしれません。狂気の沙汰ですが、同時に信じられないほど勇敢でした。他のプログラムが彼が驚異的な技術的・芸術的能力を示しているすれば、このプログラムでは戦士としての彼の気性を示しています。この数分間に起こることを見るのは辛いですが、これは彼が史上最高であることを示す最高の証拠の一つだと思います。

最終順位は2位でした。3週間後、まだ痛みが残る状態で(これは控え目な言い方です。正しくは彼がどうやって立っていたのか尋ねるべきでしょう)NHK杯にやってきた彼は、5位に入り、僅か0.15点差でグランプリファイナルの最後の切符を掴み取りました。

最初の衣装を二度と着ることがなかったのは残念です。新しい衣装も悪くはありませんが、私は前の衣装の方が好きでした。ショートプログラム1位、フリープログラム1位、新たな勝利。オリンピック金メダリストが同年のグランプリファイナルで優勝するのは全カテゴリー含めて史上初のことでした。実際、オリンピックチャンピオンは引退するか、少なくとも休養することが多いですが、彼はモチベーションを失いませんでした。時には彼はミスをしますが(多くの場合、身体的問題で実力を発揮出来ないケースです)、彼は信じられないほどの強さで常に前進しました。ディフェンディングチャンピオンとして臨んだ全日本では尿膜管の痛みが既に始まっており、状態は限界に達していました。フリーの3日後、問題を解決するために外科手術を受けますが、物事はスムーズに運ばず、様々なアレルギーによって困難な時期を過ごしました。その間、成人しますが(日本では20歳で成人です)、彼は成人式の日も病院で過ごしました。

彼は記念祭や式典とはあまり縁がありません。高校の卒業証書は彼のために特別に開かれた卒業式で一人で受け取りました。公式な卒業式の日、彼は世界ジュニア選手権に出場するために遠征中だったからです。成人式は病院。大学の卒業式は新型コロナのせいで完全にリモートで行われたため、出席しませんでした・・・しかし、少なくとも試合を逃すことはありませんでした。ただし、身体が万全からほど遠い状態にも拘わらず、彼が出たいという理由で出場していたというのもありますが。

 

数カ月の離脱、そして再び足首を捻挫した後、世界選手権の地、中国でコーチと再会しました。ショートの公式練習で起きたエピソードが原因かは分かりませんが銀メダルに甘んじることになりました。

そして国別対抗戦です。ショートもフリーも1位で日本の銅メダルに貢献しました。その後、溶解せず、胃の中で成長する親知らずのような状態になっていた手術の縫合糸を取り除くために再び手術を受けました。シンプルな人生ですか?一度もそんなことはありませんでした。

 

幸いなことに、私はあまりコメントせずに動画を3~4本貼ろうと思いました。201-2016年シーズン最初の試合はオータムクラシック・インターナショナルでした。B級大会でこのSEIMEIは完璧ではありませんが、このバッククロスロールは見る価値があります。

2戦目のスケートカナダ、ショートプログラムで3つのジャンプ要素の内、より得点の高い2つが0点になりました。そしてNHK杯です。この大会前と大会後で時代が変わります。

ここで可能性の限界が押し上げられました。まず惑星ハニューの唯一の住人である彼にとって可能なことの限界、次にジャッジ達の採点する際の想像力の限界も。

偶然にも、これは彼にとって5個目の世界最高得点です。

6個目の世界最高得点(自身初のフリーの世界最高得点)、そして7個目の記録(自身初のトータルスコアの世界最高得点)。フリーで200点、トータルで300点の壁を超えました。グランプリファイナルでは8個目、9個目、10個目の世界最高得点を叩き出し、前大会がまぐれではなかったことを証明しました。

ISUがエレメントの基礎点とGOEのスケールを変更した時、この時のトータルスコアは歴史的世界記録として永遠に保存されましたから、誰もこの得点を超えることは出来ません。

私は知りませんでしたが、大分前から彼の左足はリスフラン関節靭帯損傷による激痛を抱えていました。羽生の軌跡を追っていると、思いがけず医学の知識が豊かになります・・・世界選手権ではあまりにも痛みが酷かったため、彼はキャリア最後の演技になるかもしれないと思いながら滑ったそうです。自身のそんな不安を微塵も見せることなく・・・今、私達が知っていることは、全て後になって分かったことです。

そして、そのような最悪な体調でも彼は銀を獲得し、彼を上回ったのは並外れた演技をしたハビエル・フェルナンデスだけでした。これは彼の故郷だけでなく、様々な災害の犠牲者全員に捧げられたエキシビションのプログラム、「天と地のレクイエム」です。

結弦にとってはどんな問題もチャンスになります。左足が痛いなら、問題が少ない別のジャンプ、ループをやればいい。こうして彼は4ループを練習しました。ようやく、医師達がどんな種類の怪我か理解した時、彼は足を治療し、新シーズンでは4ループを成功させた史上初のスケーターになりました。

残念ながら、彼の並外れたショートプログラムの音楽は、著作権の問題でYoutubeにブロックされてしまいます。

スケートカナダはまたしても2位、NHK杯は1位でした。フリーで幾つかミスがあったものの、グランプリファイナル四連覇を達成します。これがショートプログラムです:

インフルエンザのため全日本選手権を欠場し、四大陸選手権に出場します。ショートプログラムではコンビネーションでミスがありました。フリーではサルコウをミスしますが、リカバリーします。プログラムのほぼ最後で4回転ジャンプ。最後のジャンプで3アクセルを実施するという狂気の沙汰(しかも彼のいつもの実施のクオリティ)をやってのけられるのは彼だけです。

しかし、またしても銀メダルに甘んじることになりました。そしてヘルシンキ世界選手権です。ショートプログラムではコンビネーションがあり、厳し過ぎる判定を受けますが、ここで批判を持ち込みたくはないので、これ以上書きません。

そしてフリーです。完璧でした。SEIMEIについてもそうですが、Hope & Lecacyのコンポジション、プログラムが持つ意味、プログラム制作の舞台裏について長々と語ることが出来ますが、残念ながら今はその時間はありません。鑑賞するだけにしておきましょう。

フリーの歴史的最高得点として永遠に記録されることになった11個目の世界最高得点は、彼に2度目の世界タイトルをもたらしました。

世界国別対抗戦ではショートプログラムでミスし、フリーは1位。日本は金メダルを獲得しました。オリンピックに向けて準備する時がやってきました。新シーズンの最初の試合では、世界記録のプログラム、ショパンとSEIMEIが戻ってきました。オータムクラシック・インターナショナルのショートプログラムで結弦は自身12個目となる世界最高得点を叩き出しました。この記録も歴史的記録として保存されています。

フリーではミスを連発し、2位で大会を終えました。ロステレコム杯では初めて試合で4ルッツを披露しました。しかし、ここでも2位に甘んじなければなりませんでした。

熱のある状態で参加したNHK杯の公式練習で、4ルッツに挑戦し、右足首を負傷しました。いいえ、この映像は探しません。結弦は競技から姿を消し、オリンピックで再び公の場に現れました。彼の最初の練習。いかにも彼らしく並外れています。

結弦は10日ほど前から4トゥループと4サルコウの練習を再開しました。4ループは平昌に出発する前日に初めて跳ぶことが出来ました。彼は自分が万全からは程遠い状態で、幾つかのジャンプは断念しなければならず、皆が彼の一挙一動に注目しており、少しのミスも出来ないことを知っていました。この大会のショパンです:

フリーでは2つミスがあったものの、途方もないプログラムでした。

2個目のオリンピック金メダル。ディック・バトン以降、66年ぶりに男子シングルで二連覇を達成した最初のスケーターになりました。結弦は既に伝説です。今の彼を描写出来る言葉はありません。
エキシビション:

世界選手権には出場しませんでした。彼はまだ痛み止めを服用していたのです。誰かが小説を書いたら、あり得ないストーリーだと思うでしょう。しかし、これは本当に彼の人生なのです。

結弦を止めることが出来ますか?他の人なら誰でも立ち止まっていたでしょう。でも結弦は違います。彼は前に進みました。この年、中国杯の代替大会となったグランプリ・ヘルシンキのショートプログラムで結弦は自身13個目の世界最高得点を獲得します。彼にとって新採点法で初めての記録でした。

フリーでは氷が最悪の状態(柔らか過ぎました)だったにもかかわらず、14個目と15個目の記録を樹立し、試合で4トゥループ/3アクセルのシークエンスを成功させた史上初(正確には未だに史上唯一です)のスケーターになりました。この時のGOEはマイナスですが、数カ月後の世界選手権では加点付きで成功させました。

ロステレコム杯のショートプログラムでは16個目の世界最高得点を樹立します。ファン撮影動画しか見つけられませんでした。

フリー当日の朝、公式練習で彼はまたしても右足首を痛めます。しかし彼はロシアにいて、エフゲニー・プルシェンコに捧げるプログラムであり、原曲の作曲者であるエドウィン・マートンは彼を生で見るために現地に来ていました。そして彼は滑ったのです。

表彰式は翌日行われました。ここまで私は表彰式には一切触れませんでしたが(もっと重要な大会も含め)、この表彰式は特別です(いずれにしても、表彰式も見るに値します。多くの場合、上機嫌のひと時であり、あるいはとても感動させられます)。

また不在期間が訪れます。結弦は再び痛み止めを服用することを余儀なくされ、世界選手権で競技に戻ってきます。ショートプログラムでは4サルコウでミスがあり、フリーでは17個目の世界最高得点を獲得します。

残念ながらこの記録は長く続きませんでしたが、先ほど言ったように、ここでは得点には触れません。銀メダルを獲得し、エキシビションでは「春よ来い」を披露しました。

オフシーズンにはファンタジーオンアイスの巡回公演に出演しました。私は通常、アイスショーはほとんど取り上げませんが(というのも全ての公演を見返すのはあまりにも多くの時間を要するからです)、「マスカレイド」はあまりにも鮮烈なプログラムでしたから、触れない訳にはいきません。これは仙台公演です。

世界が激変する前の最後のシーズン。オータムクラシック・インターナショナルで優勝、そして4度目の出場にしてようやくスケートカナダで優勝しました。フリーでは4トゥループ/オイラー/3フリップのコンビネーションを成功させた最初のスケーターになりました。

NHK杯でも優勝し、グランプリファイナルがやってきました。1年前、私達は全員、トリノにいました。私と、実際に現地に行くことの出来た人達、そして心でトリノに行った人達。

これは木曜日。土曜日のために私はもっと大きなぬいぐるみを購入しました。
ショートプログラム:

金曜日には4アクセルを練習する、ということがどういうことなのかを私達に見せてくれました。公式動画はなく、ファン撮影動画だけですが、Youtubeで簡単に見つかります。

土曜日、彼の25回目の誕生日に自身初めて1つのプログラムでオリンピック金メダルと選手生命を脅かしたかもしれないあの4ルッツを含む5本の4回転ジャンプを着氷しました。

私達が願っていた結果にはなりませんでしたが、あの場に居合わせたことは、とても光栄なことであり、強烈な感動を味わうことが出来ました。

エキシビション:

全日本は極度の疲労と議論の余地のある採点によって困難な試合でした。最高の瞬間は最後のエキシビションで訪れました。リンクでバッククロスオーバーを復活させた時、彼は自分が本当にやりたいことを自問自答し始めました。

最後の試合は2020年四大陸選手権でした。ショートプログラムではショパンを再演し、彼の世界最高得点は19回目に達しました。

酷い状態だった氷のせいでフリーは困難でした。それでも、彼は何とか4ルッツを着氷してフリーも1位、大会を制して遂にスーパースラムを達成しました。

私達が最後に彼をリンクで見たのはエキシビションでした。そしてその後、パンデミックが全てを止めてしまいました。

その後は僅かな動画と卒業のニュースだけです(この卒論、私は心底読みたいと思っています)。

今この瞬間、日本はもう12月7日ですから、彼の26歳の誕生日です。途方もない軌跡。中でも試合は最も周知されている、彼を有名にした側面ですが、彼という素晴らしい人間のほんの一部分に過ぎません。

お誕生日おめでとう、結弦!
あなたに相応しい幸せを見つけられますように。

書いている途中でYoutubeが勝手に再生したこの動画も追加します:

結弦の生誕祭企画はたくさんありました。ここでは私も微力ながら写真を提供した2つの動画をご紹介します。

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☆本当はせめてイタリア時間の7日中に投稿したかったのですが、昨日は仕事が終わったのが遅く、PCの前に座り、翻訳に取り掛かった時点で既に夜でした。
そして、いくらマルティーナさんでもハッピーバースデー記事だからそんなに長くないはず、と甘く見ていたのが間違いでした・・・😅

彼女のブログを開いて目が点に!
スクロールしてもスクロールしても終わりが見えない!!!😱

それでも何とか深夜12時に間に合わせようと、ハイペースで翻訳し始めましたが、11時を回った時点でこれは無理だと、潔く諦めましたw

最初に投稿されているメッセージカードの撮影ロケーション、スフォルツェスコ城もドゥオーモもミラノ一番の観光スポットですから、渋谷駅のハチ公前並みにいつも混雑しています。

今はコロナウイルスの影響で観光客は激減しているとはいえ、ショッピング街でオフィスも多いですから、人の往来が激しく、あの場所でプーやカードをセットし、写真を撮るのはかなり大変だったと思います。そして相当目立ったはず。

皆さんはハチ公前でプーとメッセージカードをセットして写真を撮る勇気がありますか?
ちなみに私には無理です😅
マルティーナさんの愛の深さを感じます!:awww:

 

Raiのアリアンナさんが祝福ツイート第2弾

マッシさんも負けじと😂

2019年グランプルファイナル中、彼の25歳の誕生日に羽生結弦は4ループと4ルッツを含む3種類以上の4回転ジャンプを同じプログラムで成功させた史上初のスケーターになった。

優勝ではなかったが、いつものことながら観客から最も多くの拍手喝采を浴びた。


日本時間の7日午前0時から昨日は一日中、世界中から発信された本当に多くの祝福メッセージを見ました。

紙面を丸々割いて祝福するスポーツ新聞まで!

そしてファンだけでなく、世界中のスケート関係者やジャーナリストからも多くのHappy Birthdayが!
一層12月7日は世界的祝日にしちゃっていいんじゃないの?と思った1日でした。

1日過ぎちゃったけど、改めておめでとうございます!

26歳はきっと4アクセルの年。
どうか健康で、己の信じる道を爆進して下さい。

 

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu