イタリアの最大手スポーツ新聞La Gazzetta dello Sport紙のソチ五輪フリーの記事です。
羽生選手のことを震災を絡めて温かく、丁寧に書いてくれています。
ちなみに女子フリーの記事は(まあ当然ですが、ほとんどカロリーナ、写真もカロリーナ、アデリナ2行、ヨナ1行でした)。
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(2014年2月15日)
アンドリア・ブオンジョバンニ特派員
ソチ(ロシア)
あれから3年もたっていない。
3月11日、最悪レベルの津波とその後の原発災害を引き起こし、日本に壊滅的な被害をもたらした強い揺れが起こった時、将来を期待される16歳、羽生結弦は故郷仙台で練習中だった。
死者はおよそ2万人に及び、結弦は家族と数百人の市民と共に数日間、体育館で寝泊まりした。
(設備の一部の壁と同じ高さの)パイプコイルは壊れ、氷はすぐに溶け出した。彼の夢と同じように。
リンクが練習可能になるまで4か月が必要だった。
異様な夜
あの呪われた時間から3年弱、深い心の傷を乗り越えた少年は男子シングルでは日本で、そしてアジアで初めてのオリンピック金メダリストになった。19歳という年齢は総合的にも66年のフィギュアスケート史において最年少である。
若手のコフトゥン選手にチャンスを与えるべきだったと主張する右派政党ジリノフスキーとロシア・スポーツ連盟との論争を巻き起こしたエフゲニー・プルシェンコの棄権による(過剰な)影響に支配された夜のアイスバーグは異様だった。熱狂的な雰囲気はなく、観客は冷淡だった。
自国の選手がいないにも関わらず、観客席からは時折「ロ・シ・ア!ロ・シ・ア!」の合唱すら起きた。一体誰のために?こんなことは前代未聞である。このことがまるでシーズン初めの練習の場のような覇気のない空気を作り上げた。
緊張感は最高潮に達した。プレッシャーが最強の選手達をも押しつぶし、彼等はミスを犯した。多くのミスを。
決戦
木曜日に行われたショートプログラムの後、金メダル争いは実質、2人の巨神、100点の壁を破った史上初の男子、羽生と、彼を3.94点差で追う世界選手権三連覇のカナダの金メダル候補、パトリック・チャンの一騎打ちとなった。彼等から遥か遠く離れたところでその他の選手達、実に11人もの選手が銅メダル争いをすることになった。
金メダル候補の中で最初にリンクに立ったのは、ほっそりとした身体(172センチ54キロ)と不治の喘息を持つ12月の福岡グランプリ・ファイナルの覇者、羽生だった。
冒頭の4回転サルコウで転倒するが、続く4回転トゥループは決める。しかし次の3回転フリップで再び転倒。聖バレンタインの日にニノ・ロータの「ロミオとジュリエット」の調べに乗せて演じたプログラムの残りの部分は爆発的で高いクオリティだった。
だが、直後に滑るチャンには挽回する大きなチャンスが訪れた。しかしながらカナダ男子シングルの呪いが再び訪れた。
パトリックは4回転トゥループ‐3回転トゥループのコンビネーションジャンプを完璧に決めるも次の4回転トーループで手を付き、3回転アクセルで転倒。その後も細かいミスを連発した。
結果は?
フリー後の点差は合計4.47点(280.09対275.62点)。逃したチャンスは莫大なものだった。
スーパー・オーサー
チャンとの対戦はシーズンを通して既に3度あった。正確にはグランプリ・シリーズ2戦、スケート・カナダとエリック杯、そして記憶に残る日本でのグランプリ・ファイナルだ。
だが真の決着がついたのはここ、ソチだった。
今大会、健闘したのはカザフスタンのデニス・テンだ。銀メダルに輝いた2013年のロンドン世界選手権の時と同様のサプライズだった。スペインのハビエル・フェルナンデスを僅差(1.18点差)で上回り、銅メダルを獲得した。
興味深いのは表彰台の3人が全員アジア系だったことだ。
注目すべきは(当初困難があったものの)2012年からトロントで結弦を指導するカナダ人、ブライアン・オーサーの大勝利である。
ブライアンは1984年と1988年の五輪銀メダリストであり、2010年のバンクーバーオリンピックでは韓国のキム・ヨナを金メダルに導いた。
ハビエル・フェルナンデスのコーチでもある彼には今後、注目が集まるだろう。
しかしながら、いささか後味の悪い大会だった。何故ならロシアの観衆はこのような大会ならプルシェンコが優勝出来たに違いないと信じているからだ(実際には非常~に難しかっただろう)。
羽生は心を揺さぶる非常に偉大なスケーターだが、2度転倒したオリンピックチャンピョンだ。
しかし、これが超絶難度に達した今日のフィギュアスケートなのだ。
それが受け入れられないなら見なければいい。