Sportlandiaより「羽生結弦とGOATを巡って」

マルティーナさんの力作、超長文です。

 

原文>>

 

マルティーナ・フランマルティーノ著
(2021年1月11日)

Japan Forwardに掲載されたジャック・ギャラガーの最新記事は、もう一人のキーボードの達人、フィリップ・ハーシュの言葉の引用で締めくくられています。
北京オリンピックの展望です。

 

「もしネイサンが2つのプログラムをクリーンに滑るなら、ユヅは北京で勝つために2015年のNHK杯とGPFのように、より技術点の高い全体的に良い演技をしなければならない」とハーシュは言う。

ハーシュは簡潔な言葉で自身の考えを締めくくった。

「ユヅが再び勝てば(三連覇すれば)、GOAT(史上最高)の議論に終止符が打たれるだろう」

 

羽生結弦がネイサン・チェンと比べて(そして他の誰と比べても)演技構成点の全ての項目についてよりコンプリートであることを考慮すると、勝つために他の選手達より技術点を上げる必要はありませんし、理論的には演技構成点で差をつけられますから、最も強力なライバル達と同じ技術点で充分なはずです。

最も困難なのは、スケーター間の差を見分け、正しい得点を与える能力のあるジャッジを揃えることです。何故ならスケーティングスキル、トランジション、または音楽の解釈を比較した場合、結弦に最も近づけるのは(とはいってもかなり差がありますが)ジェイソン・ブラウンですが、次の大会でブラウンが1本でもクワドをクリーンに降りたら、彼が勝つかもしれないからです。4本ではなく1本のクワドで。

ハビエル・エルナンデスの引退後、私が羽生の次に応援するスケーターであるブラウンを批判するつもりはありませんが、私には彼の限界を認識する冷静さがあります。
従って、ミスを連発しない限り、羽生は他のどの選手に対しても技術点で上回り、チェンに対してはもし技術点が同じなら羽生が勝たなければなりません。

チェンが演技構成点の幾つかの項目で羽生を上回ったこと、あるいは限りなく近い得点を獲得したことは(どちらのケースも実際に起こりました)、スキャンダルであり、ISUは今以上に嘲笑され、僅かに残された信頼性を失うことを望んでいないのなら、今すぐジャッジ達に最適な研修を実施するべきです。

しかし、ハーシュの言葉の中で一番問題なのは最後の一文です。

羽生がGOAT(史上最高)と確定されるには、本当に3つ目の五輪金メダルが必要でしょうか?

おそらく・・・おそらくですが、ハーシュに同意出来るかもしれません。
実際、羽生と並べることの出来るスケーターが一人います。私の意見では結弦の方が上だと思いますが。それはアメリカ人です(羽生はロシアのエフゲニー・プルシェンコの神話に憧れて成長し、私はカナダのカート・ブラウニングが大好きでしたが、これが事実です)。
彼の名はディック・バトン。
そう、バトンは愚説になることなく、羽生結弦と同列で語ることの出来る唯一のスケーターです。

発端になったのは私にとってあまり重要でない記事ですが、私はいつもの、存在しない要約能力を駆使してちょっとした検証を行いました。
長文を読む準備は出来ていますか?

幾つかの計算を見てみましょう。個人戦だけを対象にしました。何故なら、フィギュアスケートは個人(またはペア)の競技であり、時としてチャンピオンでなくても、そこそこレベルの高いスケーターが強国チームの一員という幸運によって重要なメダルを獲得することがあるからです。

例えば、アメリカのアシュリー・ワーグナーとグレーシー・ゴールドは2014年にオリンピック団体戦の銅メダルを獲得しました。前者は世界選手権に7度出場し、銀メダル1個、4から7位に入ったのが5回、四大陸選手権には2度出場して1度優勝しました。グランプリファイナルには5度出場、銀メダル1個、銅メダル2個。グランプリ大会では金メダル5個、銀メダル3個、銅メダル6個。オリンピック個人戦は7位でした。後者は世界選手権に4度出場し、4位が2回、5位と6位が1回ずつ。四大陸選手権では4位と5位と6位。1度だけ出場したグランプリファイナルは5位。グランプリ大会では金メダル2個、銀メダル2個、銅メダル2個。オリンピック個人戦は4位でした。

物事を目隠しして見ようとすれば(現実を見て見ぬふりすると)、彼女達はオリンピック銅メダリストを言うことが出来ます。

しかし、彼女達のオリンピック銅メダル(ワーグナーはショート4位、ゴールドはフリー2位)はカロリーナ・コストナーのオリンピック銅メダルと同等の価値があると思いますか?2014年、コストナーは個人戦で銅メダルを勝ち取りました。

コストナーについては五輪メダルについてだけ触れましたが、考慮すべきことは他にも数多くあります。世界選手権で金メダル1個、銀メダル2個、銅メダル2個。16シーズンに及ぶキャリア(実際に競技したのは14シーズンですが)、驚異的な選手生命の長さと時代を特徴付ける能力を披露しました。欧州選手権では金メダル5個、銀メダル2個、銅メダル4個。最後に出場した2018年まで11大会連続で表彰台でした。グランプリファイナルは金1個、銀1個、銅2個。グランプリ大会では金4個、銀7個、銅3個。他のことを見ずに五輪メダルだけを見ると、3人共に銅メダルを1個ずつ獲得していますが、キャリア全体に注目すると3人のスケーターは全く比較になりません。従って、団体競技(オリンピック団体戦も世界国別対抗戦も)は私の考察から除外します。

 

最も重要な大会はオリンピックです。幾つかの例外はありますが、スケーターの価値は主にこの大会によって判断されます。

ポール・ワイリーは自身2度目の出場となった1992年のオリンピックで銀メダルを獲得しますが、世界選手権は9位と10位と11位でした。私はワイリーが好きでしたが、当然のことながらフィギュアスケート史における彼の存在は、3回出場した五輪でのメダルはゼロでも、引退までの5年間に世界選手権で金メダル4個、銀メダル1個を獲得し、史上初めて4回転ジャンプを成功させたカート・ブラウニングほど重要ではありません。

私にとっては、オリンピック金メダル1個(選手全員が自爆した本当に低調な大会でした)、銅メダル1個、世界選手権金メダル1個、銅メダル1個、欧州選手権金メダル3個、銀メダル1個、銅メダル2個のヴィクトール・ペトレンコやオリンピック金メダル1個、7度出場した世界選手権で銅1個だけ、欧州選手権金1個、銀1個、銅3個のアレクセイ・ウルマノフよりブラウニングの方が重要なスケーターです。

オリンピック金メダルを2度獲得した選手は、同じ快挙を成し遂げた選手としか比較出来ません。
例外的に異なる理由から(GOATの)考察対象になる選手は存在しますが、現在現役の選手では誰も該当しません。

以下はオリンピック金メダルを2個以上獲得した選手達です:

  • 3個 – ギリス・グラフストローム(1920, 1924, 1928年)
  • 2個 – カール・シェーファー(1932, 1936年)
  • 2個 – ディック・バトン(1948, 1952年)
  • 2個 – 羽生結弦(2014, 2018年)

たった4人です。他のカテゴリーでもごく僅かです。

女子シングルで五輪金メダルを複数獲得した選手は以下の通りです:

  • 3個– ソニア・ヘニー(1928,1932,1936年)
  • 2個 – カタリーナ・ヴィット(1984, 1988年)

ペア:

  • 2個 – アンドレ・ジョリー/ピエール・ブリュネ (1928, 1932年)
  • 2個 – リュドミラ・ベルソワ/オレグ・プロトポポフ(1964, 1969年)
  • 2/3個 – イリーナ・ロドニーナ/アレクサンドル・ザイツェフ (1976, 1989年。ロドニーナは1972年にもアレクセイ・ウラノフと組んで金メダルを獲得している)
  • 2個 – エカテリーナ・ゴルデーワ/セルゲイ・グリンコフ(1988, 1994年)
  • 2個 – アルトゥール・ドミトリエフ (ナタリヤ・ミシュクテノクと組んで1992年に1個、 オクサナ・カザコワと組んで1998年に1個)

アイスダンス(オリンピック競技になったのは1976年以降):

  • 2個 – オクサナ・グリシュク/エフゲニー・プラトフ(1994, 1998年)
  • 2個 – テッサ・バーチュ/スコット・モイア(2010, 2018年)

 

88大会(1908年のスペシャルフィギュア大会から数えています)で僅か13人/組。複数のオリンピック金メダルを獲得することが如何に困難なことなのかが分かります。

時代の異なるスケーターを比較するのは不可能です。対戦するライバルも技術的難度もスケート靴などのツールもルールも異なるからです。

グラフストロームは世界選手権に4度だけ出場し、3回優勝しました。しかし、彼によって重要な大会はオリンピックだけだったため、欧州選手権には一度も出場しませんでした。1932年に38歳で出場した自身4度目にして最後のオリンピックでは、不注意で規定とは異なるコンパルソリーフィギュアを実施し、フリーではカメラマンに激突しました。しかし、この2つのミスにも拘わらず銀メダルを獲得しました。彼と同時代の人々の証言によれが、グラフストロームは優れたスケーターだったと言われており、フィギュアスケート界に大きく貢献したに違いありませんが、あまりにも大昔に活躍したスケーターについては私は大きな疑問を持っています。

最終順位は規定のコンパルソリーフィギュアの2/3の結果であり、如何に技術的に難しかったとは言え、現在のエレメントに比べてリスクはそれほど高くありませんでした。現在のスケーター達はしばしば転倒するリスクに晒されており、転倒は順位を大きく左右します。
コンパルソリーでは、取っ掛かりを間違え、完璧な図形を再現で出来ないことがあっても、ミスが与えるダメージは少なく、得点はより限定されており、順位の変動はそれほど大きくありませんでした。
この理由からグラフストロームやカール・シェーファー(オリンピックでただ一人グラフストロームを上回って金メダルを獲得し、1930年から1936年にかけて世界選手権を7連覇し、それ以前の大会も銀2個と銅1個で、出場した世界選手権10大会全てで常に表彰台、欧州選手権にも10回出場し、金8個、銀1個)をバトンや羽生と同列に見なすことは困難なのです。 彼らは優れたスケーターですが、現在のスケーター達と同列に並べるのは無理があります。

 

ウルリッヒ・サルコウも考慮に値します。オリンピック金メダルは1個だけですが、それは彼のせいではありません。サルコウは同名のジャンプを考案し、1987年に自身初の世界選手権メダル、銀メダルを獲得しました。そして1901年に最初の世界タイトルを獲得し、そこから10連覇(世界記録)を達成しました。彼にとって不運なことに、フィギュアスケートが五輪競技に加えられたのは1908年でした。従って、それ以前の五輪で勝つことは不可能でした。五輪で競技することが出来た時、彼は金メダルでした。
1912年大会ではフィギュアスケートはオリンピックのスケジュールに含まれていませんでした。そして第一次大戦中だった1916年にはオリンピックは開催されませんでした。サルコウは競技出来た時に勝ちました。

前述の3人と、彼らほどは勝っていない他の人(例えば、スピードスケートの懸賞大会で優勝したプロ選手ですが、フィギュアスケートの世界選手権には一度も出場したことのないアクセル・パウルゼンなど)は伝説の選手であり、別カテゴリーに属していると私は考えています。

異なる時代を比較出来ないように、異なるカテゴリーを比較することも出来ません。
1936年のオリンピックでマキシ・ヘルバーと組んでペアの金メダル、男子シングルでカール・シェーファーに次いで銀メダルを獲得したエルンスト・バイアーも伝説の選手の一人です。今では考えられないことです。
2つのカテゴリーで同時に競技し、どちらでもハイレベルの成績を残した最後のスケーターはクリスティー・ヤマグチだったと私は記憶しています。彼女は1990年の世界選手権で女子シングル5位、ルディ・ガリンドと出場したペアの試合では5位でした。しかし、その後、ペアで競技するのを辞め、女子シングルで世界選手権の金メダル2個、オリンピック金メダルを勝ち取りました。
イタリアのヴァレンティーナ・マルケイもペアと女子シングルの2カテゴリーでオリンピックに出場しましたは、彼女の場合はヤマグチとは異なっていました。2013-2014年シーズンまでは女子シングルのスケーターで、その後の4年間はペアで競技しましたから、2つのカテゴリーで同時に競技していたわけではありません。

過去や他のカテゴリーに脱線するのは止めましょう。

エフゲニー・プルシェンコも特筆に値します。オリンピックで金メダル1個、銀メダル2個、世界選手権で金メダル3個、銀メダル1個、銅メダル1個、欧州選手権で金メダル7個、銀メダル3個を獲得しました。メダルの色を考慮しなければ、彼の五輪メダル3個(前述した通り団体戦は除外しています)を上回るのはグラフストロームの4個だけです。

グラフストロームを除くと、プルシェンコは五輪メダルを3個獲得した唯一の選手です。五輪メダル2個の選手を時系列で挙げてみましょう:

ウィリー・ベックル(銀2個)、カール・シェーファー(前述した通り金2個)、ディック・バトン(前述した通り金2個)、デヴィッド・ジェンキンス(金1個、銅1個)、パトリック・ペーラ(銅2個)、ブライアン・オーサー(銀2個)、ヴィクトール・ペトレンコ(金1個、銅1個)、エルヴィス・ストイコ(銀2個)、フィリップ・キャンデロロ(銅2個)、そして羽生結弦(金2個)。

五輪メダル1個の男子スケーター52人に対して、2つ目のメダルを獲得出来た選手は12人です。
そして世界選手権で複数メダルを獲得しながら、オリンピックでは表彰台にすら上れなかった選手が何人いるでしょうか?

プルシェンコは本当に僅差で2個目の金メダルを逃しました。そして彼自身、この結果にあまり納得していないようです。未許可のアイスショーに出場した問題でISUからアマチュア競技会出場資格を停止されなければ、プルシェンコはもっと勝っていたでしょう。彼の競技人生は非常に長く、欧州選手権で自身最初の銀メダル、世界選手権で銅メダルを獲得した1998年から最後の欧州選手権金メダルを獲得した2012年まで実に15シーズンです。内4シーズンは競技していません。

しかし、これほど長い間は高いレベルを維持し、モチベーションを見出せた選手が他に何人いるでしょうか?

技術面に関して言えば、プルシェンコは男子で初めてビールマンスピンを実施し、4T-3T-3Tやルールでは禁止されていた3連続以上のコンビネーションなど、他のスケーター達にとってはまさにサイエンスファンタジーだった様々なコンビネーションジャンプを成功させました。

彼が如何に技術的に強く、特定の期間、如何に無双であったとしても(2004年世界選手権から2006年オリンピックまで彼は出場した全ての大会で優勝しました)、彼が圧倒的だったのは技術面のみでした。彼のフィギュアスケートは羽生のフィギュアスケートほどコンプリートではありませんでした。
プルシェンコがアイドルと言う羽生自身も、プルシェンコのパワー、ジャンプのコントロール能力、氷上での支配力に憧れており、エレガンスや表現力ではジョニー・ウィアーを賛美していました。

プルシェンコは並外れたスケーターでしたが、オールラウンダーではありませんでした。

ディック・バトンに関してはあまり画像が残っていませんが、バトンは特定の一つの要素だけで最強だった訳ではなく、当時、フィギュアスケートの全ての観点において最も優れたスケーターでした。

バトンの音楽性は傑出しており、彼はピアノを弾くことも出来ました。
羽生はピアノを弾きませんし、他の楽器もやっていませんが、音楽性で引けを取ることはありません。

スピンではバトンはフライングキャメルスピンの考案者です。バトン自身が解説者になり、自分の名の付いたスピンを呼ぶことに困惑するまで、解説者達はこのスピンをフライングバトンと呼んでいました。

プルシェンコがビールマンスピンを実施した史上初の男子だとすると、羽生はこのポジションが可能な数少ない男子の一人であり、ドーナツスピンも実施することも出来ます。

近年の男子スケーターを見ると、ジェイソン・ブラウンは別にして羽生ほどスピンの上手い選手を思い出すのは難しく、ステファン・ランビエールまで記憶を戻さなければなりません。ランビエールは大好きな選手でしたが、ベストジャンパーではありませんでした。

最高のスケーターであるには全ての観点において完成されたオールラウンダーでなければなりません。

 

ディック・バトンと羽生結弦の間には幾つかの共通点があります。第二次大戦以降、五輪金メダルを2度獲得したスケーターは僅か11人/組。これが如何に難しいことかは先ほど確認しました。

バトンは2アクセル(1948年五輪)、3回転のループ(1962年五輪)を試合で初めて成功させたスケーターでした。一方、史上最高の3アクセルを持つ羽生は4回転ループを試合で初めて成功させたスケーターです。分かっている範囲で男女シングルで各種ジャンプを最初に試合で成功させた選手を見ていきましょう。

多くの1回転/2回転ジャンプに関する情報はありませんが、その他のジャンプでは多くのオリンピック金メダリストの名前が見られます。

男子はサルコウ、バトン、羽生。女子はヘニーとヴィット。

この表には各種コンビネーションを初めて成功させたスケーターの情報は含まれていませんが、コンビネーションの史上初の成功者には単独ジャンプの成功者ほどの重みはないと思います。
バトンに関する情報はスティーブ・ミルトンの著書「Figure Skating’s Greatest Star」を参考にしています:

 

彼は絶えず珍しいダブルジャンプのコンビネーションを自身のレパートリーに追加し続けており、1948年の欧州選手権ではダブルジャンプのコンビネーションまたはスピンを伴うダブルジャンプを合わせて5本着氷した(14ページ)。

 

ミルトンによれば、彼と同じジャンプ‐スピンのコンビネーションに挑戦したクレージーな選手はアメリカのジョン・リッテンガバー(1度だけ出場した1948年の世界選手権とオリンピックで共に4位)だけでした。バトンは別のアメリカ人、ジェームス・グローガン(1952年オリンピック銅メダル、1951年から1954年まで4シーズン連続世界選手権メダル)と共に当時、ステップを振付の一部として実施していた唯一のスケーターでした。

3A-2Tのコンビネーションを3Loの入りとして実施するクレージーな誰かさんを彷彿させます。
このような離れ業をやってのけられる人が他にいるでしょうか?

羽生は4T-eu-3Fのコンビネーションを史上初めて成功させスケーターであり、今でも4T-3Aのシークエンスを試合で成功させた史上初にして唯一のスケーターです。更に2018年のグランプリ・ヘルシンキ大会では、ダブルジャンプが含まれない、3回転ジャンプと4回転ジャンプだけのフリープログラムを史上初めて滑ったスケーターになりました。

 

バトンは第二次世界大戦後、競技が再開された1947年の世界選手権で銀メダルを獲得した後、5シーズンに渡ってトップに君臨し、オリンピック2大会、世界選手権5大会、北米選手権2大会(あるいは3大会?1947年の世界選手権前後にこの大会が開催された可能性がありますが、確かな情報はありません)、欧州選手権1大会を含む、出場した全ての大会で優勝しました。
そう、欧州選手権もです。
1948年までは欧州選手権は国籍に関係なく全てのスケーターが出場出来ました。当初は常にヨーロッパの選手が優勝していましたが、1948年に男子シングルでアメリカのディック・バトン、女子シングルでカナダのバルバラ・アン・スコットが優勝すると、欧州以外のスケーターを大会から締め出すために直ちにルールが変更されました。バトンは(スコットと主に)ルールを変えさせたのです。

スケーターが何かをしたことがきっかけでルールが変更されるということは、フィギュアスケート界におけるそのスケーターの影響力が、彼の現役期間よりずっと大きいことを意味しています。

故意ではないにせよ、ISUにルールを変更させたスケーターがこれまで何人いたでしょうか?
私の知っている範囲でご紹介します。

 

カナダのフランシス・デフォー/ノリス・ボーデンは1956年のオリンピックで銀メダル、1954年と1955年の世界選手権で金メダル、1953年と1956年の世界選手権で銅メダルでした。彼らはラッソーリフト(あるいは少なくともその最初のバージョン)とスロージャンプを考案しました。
しかし、彼らの国際デビューおける評価はこうでした:

 

彼らはアスレチック過ぎると批判された(ミルトン、129ページ)

 

彼らのプログラムは試合よりサーカス向き、と評されましたが、彼らの引退後、彼らが考案した多くのエレメントは試合に導入されるようになり、 アスレチック面によりスペースを与えるためにルールが改正されました。

 

規定のコンパルソリーフィギュアは実施に膨大な時間がかかること、そしてテレビ向きではないという理由で徐々に縮小されていきました。技術的過ぎて、見ていて退屈だったのです。コンパルソリーはテレビで放送されませんでした。従って、視聴者達は、テレビ放送されたフリーで素晴らしい演技をした選手達が、規定のコンパルソリーで出遅れていたために上位に入れずに大会を終えるのを見ることがよくありました。結果の根拠を理解する術がなかった人々は、選手達の能力に関係なく、あるスケーターではなく別のスケーターを勝たせるために全てが仕組まれている、と考え始めるようになりました。

この意味で最も顕著な大会となったのは1970年世界選手権における女子の試合でした。
オーストリアのベアトリクス・シューバはコンパルソリーが得意で、規定で1位、フリーはパッとせず7位だったにも拘わらず、最終順位2位で銀メダルを獲得しました。一方、アメリカのジャネット・リンはフリー2位でしたが、コンパルソリー8位が響き、最終的に6位までしか浮上出来ませんでした。テレビ放送されたのはフリーだけでしたから、素晴らしい演技をしたリンが6位、低調な演技だったシューバが2位で表彰台に上がるのを見た視聴者達はどんな印象を受けたでしょうか?

その後のISU会議で次の五輪までの4年間、従来の規定とフリープログラムに、新たにショートプログラムを加えた3種目で競技されることが決定されました。

 

1982年、アメリカのエレイン・ザヤックはフリープログラムでトゥループ4本、サルコウ2本を含む6本の3回転ジャンプを跳んで世界女王になりました。多くの選手が3回転ジャンプを2本以上入れていなかったため、ザヤックの演技は多様性に乏しかったにも拘わらず、数でライバル達を上回りました。そして彼女のプログラムからザヤックルールが生まれたのです。

 

アイスダンスにおけるジェーン・トービル/クリストファー・ディーンのインパクトは強烈でした。彼らの引退後、ISUは他のペアが彼らと同じ方向性に進むことを防ぐためにルールを変更しました。

 

トービルとディーンがプロに転向した後、ISUは正式にルールを改正して制限をより厳格にし、全てのプログラムはダンスホールで踊ることが出来なければならない、と断言することによって、彼らの幾つかの動作が確かに境界を超えていたことを認めた。(ミルトン、195ページ)

 

ショートプログラムにおける3回転ジャンプ、または4回転ジャンプ(かつてステップからのソロジャンプだった要素です)に関して言えば、1990年、カート・ブラウニングは自身のショートプログラムで3アクセル-2トゥループ、2アクセル(当時はダブル一択で3アクセルは不可でした)・・・そして3アクセルを跳びました。彼はルッツが苦手で、このジャンプで何度も怪我をしました。しかしアクセルは得意でほとんど失敗することがありませんでしたから、3本入れて何が悪いのでしょう?

言うまでもなく、ISUはルールを改正し、コンビネーションではない3回転ジャンプ(ソロジャンプ)はアクセル以外と決められました。

 

ザギトワルールは最近のことです。ショートプログラムでは最後の1本、フリーでは最後の3本のジャンプ要素だけが、後半ボーナスの対象になりました。何故このようなルール改正が行われたのか?それは2018年のオリンピックでアリーナ・ザギトワが全てのジャンプ要素(ショート3本、フリー7本)を10%のボーナスが付く後半に配置したからです。このように構成されたプログラムをバランスの悪いプログラムと定義出来るかどうかは私には分かりません。スケーターが体力のある間に実施出来るよう前半に全てのジャンプ要素を固めたプログラムについても同じです。しかしながら、ザギトワはこのような構成のプログラムで(そして見事に滑り切り)オリンピック金メダルを獲得し、ISUはルールを変更しました。

 

羽生に関しては、公言こそされていませんが、最近のルール改正における3つの変更点は、彼に起因していると私は疑っています。

大きな変更はGOEの幅が+3/-3から+5/-5に拡大されたことです。
名目上はエレメントのクオリティにより優れたスケーターに報いるための変更、ということでした。しかし、私が見たところ、当初の意図(もしそのような意図で変更されたのだとしたら)は完全に無視されています。現在の採点は、本来なら可能な限り最小限に留めなければならないはずの主観性によって支配されているように見えます。

またジャンプ要素が1つ減りました。新ルールが導入されたのは2018-2019年シーズンからですが、ISUは2015-2016年シーズン、羽生が採点システムを破壊したかの有名なNHK杯の後から既に議論を始めていました。
演技構成点の係数を変更すれば、ISUはTESとPCSのバランスの問題を解決出来たはずです。しかし、それではあまりにも簡単過ぎたのでしょう。彼らはジャッジ達の採点方法の比較を困難にする(しかし不可能ではありません)全体的な変更を選択し、実際ジャッジ達の匙加減が得点により反映され易くなりました。公正で能力のあるジャッジなら問題ありませんが、これが必須条件になるのは間違いありません。

2015-2016年シーズンには、羽生と同じ数の4回転ジャンプと3回転ジャンプをプログラム後半でも彼のようなクオリティで跳べる選手はほとんど存在せず、とりわけアメリカやロシアのようなフィギュア大国にはいませんでした。従って、彼の武器を少し削いだ方がいいでしょう。

 

ごく最近のルール改正でフリーで繰り返して跳べる4回転ジャンプは一種類だけになりました。
このルール変更はまさか羽生が平昌オリンピックで2種類の4回転ジャンプ、トゥループとサルコウをそれそれ2本ずつ跳び、合計4本の4回転ジャンプを入れたプログラムを滑って勝ったから生まれた訳はないですよね?

最後にご紹介するこのルールは、おそらく羽生が原因となった最も古いルール改正です。
2014年中国杯を覚えていますか?
あのフリーで羽生は5度転倒しました。
おそらく、彼はジャンプを着氷するのはほぼ無理だと分かっていました。しかし、ジャンプを回り切ることが出来たなら、跳んで転倒した方が、ジャンプを諦めるより得点を稼げることも知っていました。狂気の沙汰です。
私は彼がやり遂げたことを心の底から賞賛していますが、当時まだ彼のファンでなくて良かったと思う試合があるとすれば、この大会です。もしこの試合をリアルタイムで見ていたら、私は病気になっていたでしょう。

今、私達は彼が途方もなかったことを知っていますが、当時のISUはこのプログラムの後、どう対応したでしょうか?

翌シーズンから3度目と4度目の転倒では1点ではなく2点減点、5度目の転倒からは3点減点になりました。2014年、羽生は5点減点されましたが、翌年なら9点減点されるところでした。また、翌シーズンから転倒した4回転ジャンプのGOEは-3から-4になりました。
当時の得点より6点低くなりますから、羽生のフリーは2位ではなく5位でしたが、いずれにしても最終順位は2位で(ショート3位のハン・ヤンはあの恐ろしい衝突事故のもう一人の犠牲者で、当然フリーは酷い出来でしたし、他の選手達はショートで点差が開き過ぎていました)、いずれにしてもグランプリファイナルに出場していました。
ジェイソン・ブラウンの20ポイントに対して22ポイントで羽生のファイナル進出が決まりましたから、個々の試合の得点は関係ありませんでした。

 

羽生がやったことに関連してルールが変更されましたから、フィギュアスケートにおける彼の影響力は彼が出場した一つの試合や一競技シーズンよりずっと大きいということになります。

 

ルール改正の話はバトンから始まりましたので、再び彼に話題を戻し、彼が優勝した大会について話しましょう。

当時、四大陸選手権は存在せず、バトンは一度だけ欧州選手権に出場し、当然優勝しました。また北米選手権に3度出場し、3度とも優勝しました。優勝ではなかった唯一の国際大会は彼のデビュー戦となった1947年の世界選手権で、銀メダルでした。それ以外の大会は全て優勝し、前述したようにオリンピック金メダル2個、世界選手権金メダル5個を獲得しました。北米選手権はカナダとアメリカの当時のトップレベルのスケーターが出場した隔年開催の大会でした。

ただし、四つの大陸のスケーターが出場する現在の四大陸選手権と同等の大会ではありません。もし四大陸選手権がアジア圏の選手だけが出場する試合なら羽生はカナダのケビン・レイノルズに敗れた2013年でもアメリカのネイサン・チェンに敗れた2017年でも優勝していました。従って、四大陸選手権は北米選手権より少し難しい大会と言えます。

バトンは5シーズン文字通り無敵でした。
一方、羽生は好調なシーズンでも2位に留まった試合がありました。
ただし、バトンの時代は規定のコンパルソリーフィギュアが非常に重要だったため、結果はより安定していて変動が少なく、また怪我のリスクは今より断然低かったことを考慮しなければなりません。むしろ、スケートで全くお金を稼げず、違反すると競技会から排除された当時のスケーター達は資金問題と戦わなければなりませんでした。

羽生が出場を断念したのは世界選手権1大会とグランプリファイナル2大会だけですが、彼が2度目のオリンピックを含む幾つもの大会で万全からは程遠いフィジカルコンディションだったことを私達は知っています。スケーター3~4人分の怪我をまとめたほどある数々の怪我にも拘らず、彼は過去6年間2位より下の順位で大会を終えたことは一度もありませんでした。

彼がいつ怪我をしたのか調べてみるのも興味深いでしょう。怪我自体は選手の強さを語る要素ではありませんが、その選手が怪我にも拘わらず、これほど多く勝ったとなると話は別です。

バトンはオリンピックと世界選手権の両方を制したヨーロッパ大陸外の最初のスケーターであり、羽生はオリンピックと世界選手権の両方を制したアジア初の男子でした。

大陸初の快挙を成し遂げることは今も昔も簡単ではありません。そして、新たな展望を開き、これまで不可能だと思われていた結果を得ることが可能だということを、多くの人に理解させることを意味しています。

これがバトンと羽生の金メダルが、プルシェンコの金メダルより重要な理由の一つです。
プルシェンコはヴィクトール・ペトレンコ(1992年。ペトレンコはウクライナ人ですが、アルベールビルでは世界がまたソヴィエト連邦崩壊後の処理を模索中だったため臨時結成された統一チーム、「EUN選手団」の旗を背負って競技し、それ以前はソ連の選手でした)、アレクセイ・ウルマノフ(1994年)、イリヤ・クーリック(1998年)、アレクセイ・ヤグディン(2002年)に続くロシア/ソ連5人目のオリンピックチャンピオンでしたから、人々はロシアの男子スケーターが強いことを既に知っていました。しかし1948年のアメリカ人と2014年の日本人はどうでしょうか?

 

事実を言えば、バトンは羽生より少し有利でした。
戦前最後のオリンピックは1936年、戦後最初のオリンピックは1948年に開催されました。戦前最後の世界選手権は1939年、戦後最初の世界選手権は1947年でした。バトンが勝っていた時、ライバル達のほぼ全員が新人スケーターで、競技経験のある数人の選手達も必然的にもう若くはありませんでした。

羽生が日本チームでポストを手に入れるには、彼より何歳も年上の経験豊かなスケーター達と対戦しなければなりませんでした。ジュニアカテゴリーではもはや技術的に彼に対抗出来る選手はいませんでしたから、羽生は15歳という若さでシニアに上がりました。

シニアカテゴリーには彼より5-6歳年上で、体格の出来上がった、彼よりずっと経験豊かなスケーター達がひしめいていました。高橋大輔(2010-2011年シーズンの全日本の時点で既にオリンピックに2度出場して銅メダル1個、世界選手権に5度出場して金メダル1個、銀メダル1個を始めとする数々の成績を収めていた)、小塚崇彦(このシーズン最後の世界選手権で銀メダル)、織田信成(オリンピックに1度出場、世界選手権に4度出場して最高4位、四大陸選手権に2度出場して一度優勝)といった選手達です。

そして、日本チームでのポストを手に入れると、今度はパトリック・チャンと対戦しなければなりませんでした(羽生が世界選手権に初出場した年、チャンはこの大会で2度目の世界チャンピオンに輝き、ソチは彼にとって2度目の五輪でした。しかもチャンは世界選手権に既に6度出場して銀メダル2個、3年連続金メダルを首に掛けていました)。

2012年のニースには他にもブライアン・ジュベール(この大会は羽生に次ぐ4位でしたが、既にオリンピックに2度出場、世界選手権は10度出場し、金メダル1個、銀メダル3個、銅メダル2個を獲得していた選手です)、デニス・テン(オリンピックに1度出場、世界選手権に3度出場し、この翌年の2013年に銀メダルを獲得)と言った選手達が出場しており、実質、出場選手全員が羽生より年上で経験を積んでいました。

オリンピックについても同じことが言えました。
羽生は自分より熟練した選手を上回って優勝しました。

一方、バトンは自分と同程度の経験を持つ選手達、あるいは練習を続けるのが困難だった選手達の中で最強でした。ヨーロッパは戦争で荒廃し、施設のほとんどが破壊され、多くのコーチはアメリカに移住しました。従って、戦前ヨーロッパ勢が上位を独占していたフィギュアスケートが戦後すぐに北米勢に支配されるようになったのは偶然ではないのです。

初出場のオリンピックで勝つことは非常に困難なことです。可能な最善の方法で競技に立ち向かうには経験が必要です。戦後、オリンピック初出場で金メダリストになった男子スケーターは、ディック・バトン(ただし、出場選手全員が初出場でした)、イリヤ・クーリック(20歳9カ月)、そして羽生結弦(19歳2カ月)だけです。

更に、バトンの時代、フィギュアスケート界は今に比べてずっと小規模でした。私は地図は大好きですので、国境しか記されていない、シンプルで非常に見やすい地図を使いました。
そして、バトンが競技していた1947年から1952年までの期間、世界選手権とオリンピックの男子シングルの試合にスケーターを派遣していた国を調べ、該当する国を黄色で塗りました。それから羽生は初めて世界選手権に出場した2012年から最後の世界選手権が開催された2019年までの期間についても同じ調査をしました。結果はこの通りです:

国の数は数えませんでしたが、一目瞭然です。現在の方がフィギュアスケートはずっと普及し、ライバルの数も増えましたから、おそらく、勝つのはより難しくなったのではないでしょうか?

羽生の成功をバトンの成功と比較するのは困難ですが、確かなことは、彼らがその後出現したどのスケーターより優れている、ということです。

羽生はジュニア(世界ジュニア選手権、ジュニアグランプリファイナル)とシニア(オリンピック、世界選手権、グランプリファイナル、欧州/四大陸選手権)の全ての主要大会で優勝する「スーパースラム」を成し遂げた唯一の男子スケーターです。スーパースラムは長期に渡ってトップに君臨していることを表しており、並大抵のことではありません。

また、誰もに可能だった訳ではありません。アレクセイ・ヤグディンとエフゲニー・プルシェンコはこれらのタイトルの内、彼らに可能だった5大会でタイトルを獲得しましたが、彼らの時代にはジュニアのグランプリファイナルは存在しませんでした。全カテゴリーでスーパースラムを達成した選手達を見てみましょう:

女子シングルではキム・ヨナとアリーナ・ザギトワの2人、ペアでは共にパートナーを変えて達成したマキシム・トランコフ(パートナーはマリア・ムホルトワとタチアナ・ボロソジャル)とアリオナ・サフチェンコ(パートナーはスタニスラフ・モロゾフ、ロビン・ゾルコーヴィ、ブルーノ・マッソー)の2人、アイスダンスではテッサ・バーチュ/スコット・モイアだけ、そして男子シングルは羽生結弦だけです。

男子シングルでは次のオリンピックで誰かがこのリストに加わる可能性はほとんどありません(ペアではスイ/ハンが金メダルを獲得すればスーパースラム。女子シングルでは可能性のある選手が2人いますが、オリンピックに加えて、シニアのグランプリファイナル、欧州選手権、世界選手権のタイトルを獲得しなければなりません)。現時点で五輪タイトルを狙うことの出来るアメリカ、ロシア、中国の選手全員と日本のほぼ全員の選手はジュニアでのタイトルが一つ足りず、今となっては欠けているタイトルを獲得するのは不可能です。

唯一の例外はジュニアで2つのタイトル(ファイナルと世界選手権)を手に入れた宇野昌磨ですが、仮に中国で金メダルを獲得したとしても、グランプリファイナルと世界選手権でも優勝しなければなりませんから、スーパースラムまでの道のりはかなり険しいと言わなければなりません。

 

この長文の最後を締めくくるのは世界最高得点です。
2004-2005年シーズン以前は採点システムが異なりますので、世界最高得点は存在せず、6.0点を最も多く獲得した選手を調べるしかありません。6.0を最も多く獲得したのは、アイスダンスではジェーン・トービル/クリストファー・ディーンがダントツで一位、シングルでは私の記憶が正しければ女子は伊藤みどり、男子はエフゲニー・プルシェンコだったはずです。

ISU採点システムの改正後、世界最高得点が幾つ樹立されたか見てみましょう。
新採点システム導入直後の記録は世界選手権でメダルを獲得した得点以外は除外しました。採点システムがリセットされた直後では誰でも簡単に記録を出せたからです。NHK杯で村元哉中/高橋大輔の演技後「ワオ! パーソナルベストだ!」とコメントしたテッド・バートンのようなリアクションはしないでおきましょう。彼らにとって初めての試合でしたから、パーソナルベストなのは当然です。バートンはトップクラスのペアと比較してこの得点がどの程度なのか言えば良かったのです。あるいはむしろ黙っていた方が賢明でした。

男子の記録だけを見ましょう。

他の選手達に比べてダントツで最も多くの記録を樹立した選手がいます。
お望みなら羽生と他のスケーター達を比較することは可能ですが、ディック・バトンという名のスケーターを除くと(私の意見では、彼に比べて羽生が成し遂げたことはより難しかったと思います)、戦後、誰が最強だったのか疑問の余地はありません。

羽生はまだ現役ですが、彼がこれから成し遂げること、そして平昌後に成し遂げたことは全てプラスアルファです。

次のオリンピックの結果に関係なく、彼はGOAT(史上最高)です。

☆筆者プロフィール☆
マルティーナ・フランマルティーノ
ミラノ出身。
書店経営者、雑誌記者/編集者、書評家、ノンフィクション作家
雑誌等で既に700本余りの記事を執筆

ブログ
書評:Librolandia
スポーツ評論:Sportlandia

******************

☆これは1月11日に書かれた記事ですが、マルティーナさんはその後、英訳版も投稿しています。

大分前に翻訳するためにイタリア語版のテキストだけを抜き出してWordファイルに保存してありましたので(しかしその後、忙しさにかまけて今までずっと放置)、私はイタリア語原文から訳しましたが、英訳版には何カ所か加筆があることに気付きましたので、英語の追加箇所も加えました。また、ある程度の予備知識が前提で書かれていて、判りづらいかな?と思った箇所は少し補足しましたので、翻訳がソース原文と一致していないところが何か所かあります。

マルティーナさんはフィギュアスケート界における不正ジャッジ&スキャンダルの歴史シリーズ、ナショナルバイアス・シリーズ、ダニエル・カールマン考察シリーズ、ジョン・ジャクソン著「On Edge」考察シリーズ・・・と超人的なペースで執筆を続けており、どの記事もテキスト部分だけで原稿用紙30~50枚程度(シリーズ全編ではなく、1本の記事の長さです)という驚異的な分量です。

この記事も、羽生結弦とGOATがテーマですが、戦後のスケーター達の戦歴と功績も振り返って考察する内容になっており、フィギュアスケート史を読んでいるようです。

バトンさんと言えば、ソチと平昌の後にインタビュー動画で見た、ご毒舌で強烈なお爺ちゃん、というイメージでしたが、様々な技を開発した革新的なオールラウンダーだったのですね!

確かに、この長い考察を読むと、長いフィギュアスケート史の中で、その偉大さにおいて羽生結弦と並べるスケーターがいるとすればディック・バトンぐらいしかいない、ということが分かります。

分布地図が出てきましたので、私も一つ投稿したいと思います。

これは世界に散在する羽生結弦ファンの分布図です。
恐ろしいのは上の地図では白かった、フィギュアスケートが全く普及していない地域まで真っ赤に染まっていることです😱・・・
しかもこれは2017年のヘルシンキ世界選手権前のデータですから、現在はもっともっと増えているはず・・・

誰か最新版を作ってくれないかしら・・・

 

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu