Sportlandiaより「羽生結弦入門」

もうすぐ四大陸選手権が始まります!
早速、マッシミリアーノさんOA Sportが嬉々として始動していますが、書店を経営するライター/編集者のマルティーナ・フランマルティーノさんがご自身のブログ「Sportlandia」に投稿されていた記事がとても素敵だったので、こちらを先にご紹介します。

2020年2月1日
筆者:マルティーナ・フランマルティーノ

原文>>

入門(短い紹介)?
誰が信じるでしょう?
自分の好きなことについて語るのに、簡潔にまとめることが私に出来ると?
絶対に無理です!
簡潔な総括かどうかはともかく、少なくとも面白いと思って頂ければ嬉しいです。

羽生結弦とは本当は誰なのか説明するのに、短い文章を書くことなんて出来るわけがありません。

最も短いバージョンは

Hanyu, the GOAT.

確かに事実ですが、これでは何も分かりません。

数日前、私はフィギュアスケートについても羽生についても何も知らない人に、(メールで)説明しなければならない状況になりました。

私は簡潔に総括しました。あくまでも私の基準での「簡潔な総括」ですが。

彼について本格的に語るなら、私は冗談ではなく500ページは書かなければなりません。
いずれにしても、言葉だけで彼がリンクに降りた時、見る者に何を感じさせるのかを本当に理解してもらうことは出来ません。

いずれにしても、以下は私が羽生結弦について何も知らない人に少しでも彼のことを知ってもらうために書いた「短い」(「短い」という言葉を強調します)文章です。

2014年と2018年における2つのオリンピック金メダルは男子シングルでは66年ぶりの出来事でした。
羽生結弦はおそらく史上最強のスケーターでしょう。
しかしながら、数々の勝利を超えて、人間として、そしてスポーツマンとしての彼の歩みは驚異的です。
観客とコネクトする彼の能力はフィギュアスケート界において類がありません。

彼が最後に出場した国際大会、12月のトリノGPFのフリープログラムのリンクを貼っておきます。
優勝ではなく2位でしたが、その理由をここで説明すると長くなり過ぎます。
本文の随所で技術的情報についても退屈にならない程度に述べていますが、数行で分かりやすく要約することは不可能です。

プログラムの美しさと複雑さは別として、皆さんに見て頂きたいのは、彼が滑り終えた直後に起こったことです。
5分後以降、氷上が何で埋め尽くされるのか。
他のスケーター達に贈られるぬいぐるみを全部かき集めたよりも多くのぬいぐるみが彼のために投げ込まれます。
大会が開催される国がどこであっても、彼が競技する度に見られる光景です。

大会後、これらのぬいぐるみは通常、大会が開催された都市の小児病院や孤児院、恵まれない家庭を支援する慈善団体に寄付されます。

彼のバイオグラフィーに移りましょう。

羽生は1994年12月7日に日本の仙台で生まれました。
つまり競技シーズンの中盤、ちょうどグランプリファイナルの時期にお誕生日を迎えます。

2歳の時、喘息と診断されました。
2004年、9歳にして全日本ノービスB選手権で初優勝します。
彼は初出場で、他の出場選手は全員、彼より3歳以上年上のスケーター達でした。
その直後、彼のホームリンクが経営難のために閉鎖され、より遠方のより混雑したリンクで練習し始めます。練習出来る時間は減り、そのことは成績に影響を与えました。
実際、この時期、彼は上達しませんでした。

2006年、同郷の荒川静香がトリノのオリンピックで金メダルを獲得し、スケートの練習が出来ない仙台の子供達の状況を記者会見で訴えました。
その数か月後、彼のホームリンクは営業を再開しました。
その秋、全日本ノービスA選手権で3位に入り、この結果を受けて出場した全日本ジュニア選手権では7位でした。
2007年、全日本ノービスA選手権で優勝、全日本ジュニア選手権で3位に入り、最年少記録を更新しました。理論的にはシニアの全日本選手権の出場権が得られる結果でしたが、年齢制限で出場出来ませんでした。

翌年はジュニアカテゴリーの大会にのみ出場し、全日本ジュニアチャンピオンのタイトルを獲得し、グランプリ大会で5位、ジュニア世界選手権で12位という成績でした。
シニアの全日本選手権では8位でした。

2009-2010年シーズンは圧勝のシーズンでした。
出場した全てのジュニア大会:グランプリ2大会、続くファイナル、全日本ジュニア、ジュニア世界選手権で優勝したのです。
唯一、シニアの全日本選手権だけ6位に甘んじることになりました。

15歳で、もはや少年のカテゴリーにおける目標は全て達成し、数カ月前にシニア大会への出場可能年齢に達していた羽生はシニアに移行しました。

グランプリデビューで彼にとって初めての4回転ジャンプを成功させ、4位に入りますが、グランプリ2戦目では7位に甘んじました。これは彼のシニア大会における最低順位です。

全日本選手権では4位ですが、当時の日本には世界選手権の表彰台を狙える男子選手が彼以外に5人いたことを考慮すると、これは彼にとって嬉しい結果ではありませんでした。
彼にとって価値ある結果となったのは史上最年少の16歳で銀メダルに輝いた四大陸選手権でした。この最年少記録は未だに破られていません。

その翌月、2011年3月11日にその地震は起こりました。
誰もが福島原発事故を引き起こしたことを記憶している災害です。
この出来事については長々と語ることが出来ますが、ここではちょうどリンクで練習中だった羽生は逃げる過程で履いていたスケート靴をダメにし、彼と彼の家族は被災者のための避難所で4日間を過ごしたと書くだけに留めておきます。
彼のホームリンクも被災して閉鎖を余儀なくされました。
再びリンクを失った羽生はスケートを続けるために、それからの数か月間、60公演ものアイスショーに出演しました。

その秋のグランプリ大会
一戦目は4位、二戦目ではキャリア初の優勝を飾り、ファイナル出場を決めました。
全日本選手権3位の結果によって、自身初となる世界選手権への出場権を手にしました。
世界選手権ではショートプログラム前の公式練習でジャンプを着氷する足、右足首を痛めます。
子供の頃からの度重なる捻挫によって引き起こされた剥離骨折でした。
彼はリンクに降りて滑るために痛み止めを服用しました。

ショートプログラムを終えて7位。
彼は地震の後の困難な時期に彼を助けてくれた人々をがっかりさせてしまったことに責任を感じていました。

そして抒情詩のようなフリーを滑ったのです。
まさに抒情詩でした。
技術点は出場選手中最高で、客席の観客は総立ちでした。
この場にいた人々は決してこの演技を忘れることが出来ないでしょう。
フリー2位で3位まで順位を上げ、世界選手権初出場で銅メダルを獲得しました。


2か月後、母国では適切な練習が出来ないことを自覚し、カナダに移住しました。
この時、彼は英語が話せませんでした。

最初の時期は大変でした。
気候の変化によって喘息は悪化し、食欲は低下しました(彼は元々あまり食べる方ではありませんでしたが)。
コミュニケーションが難しく、練習方法が全く異なっていたため、想像していた以上に苦労しました。
その後、彼は時間をかけてコーチ陣と、そして数年に渡り彼の最大のライバルで親友となったリンクメイト、ハビエル・フェルナンデスとの固い人間関係を築いていったのです。

翌シーズンのグランプリシリーズでは初戦のアメリカ大会で彼にとって初のショートプログラム世界最高得点を叩き出しました。
2本目の4回転ジャンプを入れたフリープログラムではミスを連発し、2位に滑り落ちました。
グランプリ2戦目ではショートプログラムで再び世界最高得点を更新して優勝を飾りました。

その後、早稲田大学の人間科学部の入試のためにコーチ無しで日本に留まりました。
早稲田大学は日本最高峰の名門大学の一つで、彼は選手達が簡単に入学出来るスポーツ推薦のような制度を活用せずに入学しました。

そこから、ロシアのグランプリファイナルに直行したことを忘れてはなりません。
後日、彼は酷い食中毒に罹り、Skypeで面接試験を受けました。
12月末、食中毒の影響でまだ衰弱していたにも拘らず、シニアの全日本選手権で初優勝を飾りました。
2月には四大陸選手権に再び戻ってきました。
ショートプログラムで首位に立ちますが、フリー当日の朝、自動ドアの傍で数人のファンと話すために立ち止まった際、ドアが閉じ、目の傍を怪我しました。
動画の中で瞼の上に絆創膏が貼られているのが分かります。
翌日のエキシビションでは顔は腫れ、幅広いアザが出来ていました。
フリーでは精彩を欠き、2位に順位を落としました。

その後、数日間の休息を取った後、練習を再開しますが、インフルエンザに罹って練習を休まざるを得なくなりました。
リンクに戻った時、休んでいた時間を挽回しようとハードな練習をして左足を痛めました。

ほとんど練習出来ていない状態で世界選手権に出場し、ショートプログラムは最悪の出来で、9位に沈みました。
2013年はオリンピックの前年でしたので、世界選手権は翌年のオリンピックへの出場枠が決まる重要な大会でした。
ショートが終わった時点で彼は9位、高橋大輔は4位でした。
オリンピックの出場3枠を獲得するには、上位2選手の順位の合計が13以下でなければなりません。
この時点で日本はギリギリで、順位をこれ以上落とすわけには行かず、彼は全日本王者としてチームを支える義務感を感じていました。
ショートプログラムとフリーの間の公式練習では、左膝を庇おうとして右足首を捻挫してしました。

しかし、痛み止めを服用して3位となるフリーを滑り切りました。
全てのエネルギーを出し尽くし、演技終了と同時に氷上に崩れ落ち、足を引きずりながらリンクを出ました。しかしながらトータルで4位まで順位を上げたのです。
高橋大輔は7位で日本はオリンピック出場3枠を確保したのです。

オリンピックシーズン、食品会社が日本チームのスポンサーとなり、各選手に担当栄養士が付きました。
栄養士は彼に栄養摂取を妨げる胃腸の問題があることに気づき、彼に合った特別な食事療法を研究しました。
彼がこれまでに何度も試合でスタミナ切れになっていたとしたら、栄養士の助けがこの問題はほぼ完全に解決したのです。

秋のグランプリ大会では二戦とも3度の世界王者パトリック・チャンに次ぐ2位でした。
彼は負けましたが、同時に勝つために何をすべきかを知りました。
そして、12月のグランプリファイナルで勝ったのは彼でした。
ショートプログラムで3度目の世界最高得点を叩き出して。

全日本選手権を連覇し、オリンピックの団体戦では男子1位の演技で日本チーム5位に貢献しました。
個人戦ではショートプログラムで自身4度目となる世界最高得点を獲得しました。
フリーでは幾つかミスをしますが、チャンは彼より多くのミスを犯しました。
こうして羽生は19歳でオリンピック金メダルを獲得したのです。
1948年におけるディック・バトンに次ぐ史上2番目に若い金メダリストでした。
ただし、バトンは戦後、大会が再開したばかりでライバル達が全員新人選手だった大会で勝ちました。一方、羽生は彼よりもずっと熟練したスケーター達を上回って勝ったのです。
3月には世界選手権で初優勝を飾りました。

2014-2015年は身体的問題に最も苦しめられたシーズンでした。
9月にB級試合でシーズン初戦を迎えるはずでしたが、腰の痛みのために(彼は通常、女子選手(それも女子全員ではない)にしか出来ない技を実施出来る数少ない男子の一人でした)シーズンデビューを10月のグランプリ大会まで延期しました。

初戦のグランプリ大会ではフリー直前の6分間練習で他の選手と激しく衝突しました。
彼は負傷し(大会後、顎を7針、頭部を3針縫わなければならないほどの怪我でした)、頭に包帯を巻き、左腿の縫工筋を損傷し、右足を捻挫していました。
本来なら競技すべきではなかったのでしょう。
しかしながら、出場を阻止する明確なルールはありませんでしたから、彼はリンクに出て行きました。
ジャンプを着氷することは出来ないと分かっていたけれど、彼は全てのジャンプを跳びました。
5回転倒しながらも。
どんな選手にも未だかつて見たことのない強い意志の力の驚異的な証明でした。
当時のルールでは2位を確保するには十分な内容でした。

3週間後、彼は全く回復していなかったにも拘らずグランプリ2戦目に出場しました。
実際、4位に留まりますが、僅差でファイナル進出を決めました。
これは彼が表彰台に乗れなかった最後の大会で、その後に出場した24の国際大会(ここに3つの国内大会と2つの団体戦(金1つ、銅1つ)が加わります)では1位か2位しかありません。

2つの途方もないプログラムによってファイナルで優勝しますが、この頃からヘソの上に出来た凝血塊による痛みを胃の辺りに感じていました。
数日後、凝血塊は破裂して血と膿が出ました。
胎児の時にヘソと膀胱を繋いでいた尿膜管が残っている尿膜管遺残症でした。
通常、出生と共に自然に消退する管ですが、彼のケースのように消退していないと、腫瘍などの様々な病気を招くことがあります。

歯を食いしばり、27日に全日本選手権で優勝し、30日に手術でした。
麻疹を招く麻酔前の消毒に使われるアルコールや彼にアレルギーのある抗生物質等・・・様々な問題を伴いながら。

リンクに戻ってくると、彼は狂ったように練習しました。
彼が焦っている時に犯す定番のミス・・・
またしても足首を捻挫してしまいます。
僅かな練習しか出来ずに臨んだ世界選手権は銀メダルでした。
翌月の世界国別対抗戦では男子で1位になり、日本は3位になりました。
大会後、12月の手術の後、自然消退しなかった糸を取り除くために、再び手術を受けなけばなりませんでした。

新しいシーズン、グランプリ初戦2位の後、抒情詩のようなパフォーマンスの主役になりました。
全ての限界を打ち砕き、ショート、フリー、トータルの3つの記録を文字通り粉砕しました。
彼にとっては5つ目、6つ目、そして7つ目の記録でした。
フィギュアスケートにとっては競技を変える試合でした。
彼のライバル達は彼に勝ちたければ、彼らのスケートの仕方を完全に変えなければならないことを理解しました。
ISUはルールを変えることを決め、実際にオリンピック後に改正が行われました。

 

この2日間で滑られた2つのプログラムほど大きな衝撃と影響を与えたプログラムはフィギュアスケート史上、おそらく存在しないでしょう。

その数日後、彼は3つの記録を全て塗り替えてグランプリファイナルで優勝しました。
しかし、この時、左足に僅かな痛みを感じていました。

その直後、全日本選手権を三連覇しますが、左足は悪化し、シングルジャンプも跳べなくなってしまいました。
休息と治療によって少しずつ、部分的に回復しました。
世界選手権のショートプログラムでは自身の世界最高得点に迫る高得点で首位に立ちました。
しかし、彼の左足は限界に達していました。
フリーでは2本のジャンプでミスをし、2位に終わりました。

彼の左足に下された診断はリスフラン靭帯損傷。
これはかなり深刻な怪我で、治療せずに放置しておくと、切断に至ることさえあります。

この問題の原因になったのは特定のジャンプに伴う動作でした。
トゥループ
そして氷を突く彼の足にかかる衝撃。

足を治療した後、羽生は同じ問題が再び起こらないようジャンプの跳び方を変えました。
そして別のジャンプ、ループの方が足の甲にかかる負担が少ないため、4ループをプログラムに入れることにしました。

秋、彼は4ループを史上初めて試合で成功させたスケーターになりました。
彼の「史上初」の記録の中には、彼が試合で始めて成功させた数々のコンビネーションジャンプも含まれていますが、話が長くなりますので、ここでは割愛します。

グランプリ大会は一戦目が2位、二戦目が1位でした。
そしてファイナル四連覇。
これも史上初の快挙でした。

全日本選手権はインフルエンザのために欠場し、四大陸選手権は3度目の2位でした。
この四大陸選手権は彼がまだ優勝したことがない唯一の大会ですが、おそらく数日後にはこの事実も塗り替えられることになるでしょう。
何故なら今回のこの大会には彼に勝てるライバルが誰もいないからです。
大袈裟ではなく、この大会に出場する選手達の中で最も強い選手の自己ベストは、彼の今シーズン最も低かった得点より20点も低いのです。
従って、(大きな)怪我さえしなければ、彼が優勝します。

世界選手権ではフリーの世界最高得点を更新し、2度目の世界タイトルを獲得しました。
彼にとっては11個目の記録。
そしてこの記録は永久的な記録として刻まれました。
というのもオリンピック後、ISUは採点システムを改正して得点をリセットし、これまでの記録を歴史的記録として残したからです。
国別対抗戦ではチームジャパンとして金メダルを獲得しました。

オリンピックシーズン
B級試合のショートプログラムで彼にとって12個目の世界最高得点を叩き出し、フリーでミスをして2位でした。
グランプリ初戦も2位でした。
グランプリ2戦目、39度の高熱を出し、公式練習でフリープログラムに導入したばかりの新しいジャンプ、4ルッツの着氷に失敗して足首を負傷しました。

約2か月間は治療だけに集中し、ようやくリンクに戻ってこられたのは、オリンピックの僅か1カ月前でした。
足首は治っていませんでしたので、彼は痛み止めに頼りました。
再び怪我をするリスク、歩けなくなるリスクが高いことを知りながら。

オリンピックの10日前、4種類の4回転ジャンプの内、最初に跳んでいた2種類のジャンプを着氷することが出来ました。
4ループを着氷出来たのは出発の前日でした。

平昌で披露された2つのプログラムは抒情詩でした。
ショートプログラムは完璧。
フリーでは2つのミスがありましたは、転倒はなく、バランスを崩しただけでした。
そして観客を引き込む感動レベルは圧巻でした。
金メダルは彼のものでした。

翌月、右足首が治っていないため、世界タイトルを守るのは断念しました。

2018年秋、ルールが改正され、4アクセルを試合で成功させて歴史を更に塗り替えたいという彼の願望は、最初の試合で集中力を失わせました。
優勝しますが、あまりいい演技ではありませんでした。

彼のプライドが示されたのは、よりコンディションを上げてきた次の試合でした。ここで彼は3つの世界最高得点を再設定しました。
グランプリ第二戦目のショートプログラムでは彼にとって16個目の世界最高得点を獲得しました。
しかしフリー当日の朝の公式練習で酷く転倒し、再び右足首を負傷しました。
それでもフリーを滑る決断をし、優勝しました。
その夜、足首は腫れあがり、翌日の表彰式では松葉杖を使って表彰台に上がりました。

再び数か月間の安静を強いられ、世界選手権でリンクに戻ってきました。
そして試合が終わった後で、痛み止めをまだ服用していることを明かしたのです。
フリープログラムではフリーとトータルの両方で彼にとって17個目と18個目になる世界最高得点を叩き出しました。
しかし、彼の直後に滑ったネイサン・チェンがどちらの得点でも彼の記録を塗り替え、彼を2位に追いやりました。当然、これは彼にとって歓迎できないことです。
新しいルールは彼の主要なライバルを有利にするために研究・考案されたように思えますが、技術的な話になりますので、ここでは詳しく書きません。


いずれにしても羽生は彼のプログラムに4ルッツを戻すことを決めました。
2017年の怪我以来、彼は恐怖感のためにこのジャンプを跳んでいませんでした。
リンクした動画の中で、彼は2本目のジャンプとして4ルッツを跳んでいます。
並外れた美しさのジャンプです。
おそらく、これまで誰も実施したことがないほど美しい最高の4ルッツでしょう。

今シーズン、彼は最初の3試合で優勝しました。
B級試合とグランプリ2戦です。
そしてグランプリファイナルと全日本選手権では2位でした。
僅か6週間の間にカナダ-日本(グランプリ2戦目に出場するため)、日本-カナダ(練習拠点に戻るため)、」カナダ-イタリア(ファイナルのため)、イタリア-カナダ(練習拠点に戻るため)、カナダ-日本(全日本選手権に出場するため)を移動し、疲労困憊した状態での試合でした。

そして今、先ほど書いたように、四大陸選手権に出場します。
もし優勝すれば、ジュニアとシニアの主要な国際大会のタイトルを全て制した史上初の男子スケーターとなります。

彼は未だかつて誰も成功させたことのないジャンプ、4回転アクセルを試合で降りたいと思っています。
怪我さえしなければ、遅かれ早かれ成功出来ると私達は全員確信しています。

以上は彼に関するデータのほんの一部(戦歴と怪我)に過ぎず、彼が誰なのか、彼がどれほど驚異的なのか、彼がただの選手に比べてどれほど並外れた人間なのかについては何も語っていません。

彼の意志の強さは、彼の成功から、そして多くの怪我にも拘らず、常に前より強くなって戻り続けてくる彼の姿から感じ取ることが出来ます。

彼のプログラムの美しさは彼がリンクで行っていることを鑑賞しなければ分かりません。
語り尽くすには無限の時間を要する無数の小さなエピソードから浮かび上がる歓び、惜しみないファイト、感情移入、他者への配慮、知性が彼を特別な人間にしています。

以上、簡潔にまとめてみました(笑)

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☆マルティーナさんは2015年NHK杯でファンになり、2019年1月に完全に「堕ちた」そうですが、何という熱量、何という情報量でしょう。
いつか、羽生君について500ページ書いて欲しいです!

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu