SPORTSENATORSより「沸騰する氷上で世紀の試合が繰り広げられる」

イタリアのスポーツメディア「SPORTSENATORS」に掲載された埼玉世界選手権の特集記事です

原文>>

ジェンナーロ・ボッツァ(2019年3月29日)

埼玉フィギュアスケート世界選手権のネイサン・チェンの金メダルと共に素晴らしいショーと危険な批判の新時代が始まる。

日本の埼玉のアイスリンクで行われたフィギュアスケート世界選手権は期待を裏切らなかった・・・
スペクタクル、このスポーツの新旧の「美」だけでなく、感動の連続も見せてくれた、ほとんど「未来への扉」のような技術の進化、そして必然的な批判。
4回転ジャンプ、「ムラのある」ジャッジング、古典的調和と極限のパフォーマンスのバランスの必要性。
フィギュアスケートが岐路に直面しているのは明らかで、あらゆる要求に応えることはますます難しくなっている。
とりわけ、(主観的な評価における「不正確」な性質を考慮したとしても)最低限の「良識」を持って行動すべき人達、すなわちジャッジが、自分達の任務を果たす能力がない、それどころか、「悪意を持って科学的に」採点している疑いがあるのだから、なおさらである。
考察すべき側面が数多くあるため、1つの記事で全てを解説するのは無理である。
いずれにしてもジャッジの判定が最終結果には何ら影響を及ぼさなかった大会であったと言える。
最もスペクタクルで技術難度が傑出していた男子シングルにおいても、そして見どころ満載だったその他の3つのカテゴリー、女子シングル、ペア、アイスダンスにおいても。

 

SF小説のような頂点対決

アメリカの現世界チャンピオン、ネイサン・チェンと2度のオリンピックチャンピオンである日本の羽生結弦との対決はSF小説のような展開になるはずだった。
そして実際にその通りになった。

羽生は怪我のために困難な時期を過ごしてこの世界選手権にやって来たにも拘わらず。
残念なからここ最近、彼は頻繁に怪我をするようになっており、物理的摩耗が懸念される。
しかしながら、どちらのプログラムでも4サルコウでミスがあったものの(ショートではダブルになり0点、フリーでは回転不足になりポテンシャルの13点に対して5.93点しか稼げなかった)、羽生は巨人であることを見せつけた。
このミスの後で彼が稼いだ得点は、彼のより輝かしい優勝大会の「完璧な」演技の得点よりも高いほどだった。
確かに出来栄え点(GOE)が7段階(-3から+3)から11段階(-5から+5)に変わったので、比較するのは難しいが、いずれにしても「絶対値」を定義することは可能である。
0点になってしまったサルコウ以外の6つの要素で9人のジャッジから与えられた54個のプラス評価の内訳は:GOE+2は3つだけ、+3が10個、+4が33個、+5が8個。
フリーでは回転不足でGOEがマイナスだったサルコウ以外の11要素に与えられた99個のプラス評価の内訳は:+1が2個、+2が7個、+3が38個、+4が36個、+5が16個。
完璧達成率90%以上でほぼ満点に近い得点である。

冒頭の2本のサルコウ(ショートでは1本目、フリーでは2本目)でミスがあったにもかかわらず、すなわちハンデを負いながらスタートしなければならないという心理的影響が重くのしかかっていたにも拘わらず、羽生は並外れた演技を引き出した。
後半に固め打ちされた3本全てのコンビネーションを観察すれば、この演技が如何に並外れていたか更によく分かる。
後半にジャンプを跳ぶと10%のボーナスがもらえるが、疲労によって実施するのはより難しくなる。しかし彼は全てのコンビネーションを見事に決め、これで47点近い得点を稼いだ。

更に、演技構成点ではいつのものように羽生は他を圧倒し、95.84点を獲得。フリーの合計は206.10点、トータルは300.97点、いずれも新しい世界最高得点だった。
新しい採点システムによって前よりこの大台を超えやすくなったのかもしれないが、いずれにしても天才の演技であることを証明する得点だった。

 

鋼の神経

見事だったのは、まさに羽生の後にリンクに降りたネイサン・チェンが323.42点という高得点を叩き出し、この世界最高得点を塗り替えたことだ。
これだけでは、埼玉スーパーアリーナで何が本当に起こったのかを理解することが出来ないだろう。
ここでは「世紀の対決」と定義しても大げさではないだろう。

羽生の演技が終わった直後、1万8千人の観客は彼らのアイドルを祝福するために、フィギュアスケートの慣例である数百個(大袈裟ではなく本当に数百なのだ)のぬいぐるみや花束をリンクに投げ込み、この驚異的なスペクタクルを彩った。
リンクのほぼ半面が覆いつくされ、フラワーガール達は大忙しだった。全てを拾い集めるためにより年長のスケーター達もリンクを奔走した。
羽生の得点を待つ間、ウォームアップをするためにリンクに降りたネイサン・チェンはリンクの半分しか使えず、必要なスペースがないために迂回しながら周回しなければならなかった。会場全体に日本人のファン達の凄まじい声援が轟いていた。

チェンが秀逸だったのはこの時だった。
このような状況によって生み出される巨大な心理的プレッシャーにも拘わらず、彼はナーバスにならずにいることに成功した。
それどころか、冷静に前半に予定されていた4トゥループ/3トゥループのコンビネーションジャンプを後半(残りの2つのコンビネーションの前)に移動し、プログラム構成を変える決断をした。
ショートで13点近くリードしていたにも拘わらず、チェンは羽生のスーパーパフォーマンスの後で1位は確実ではないと気付いた。そして、1点でも多く稼ごうとコンビネーションジャンプを後半に移したのだ。何故なら後半のボーナス10%による数点の差が勝敗を分けるかもしれなかったからだ。
チェンはフリーで216.02点を獲得したので、最終的にこの変更は必要なかったが、彼は聡明さと知性を示し、心理的に最悪な状況でも素晴らしい演技を実施し、より高い得点を稼いで真のチャンピオンの見本であることを見せた。
GOEでマイナスはなく、ゼロが4個、+4と+5が65個、合計118点中50%以上を獲得する完璧に近い出来だった。

演技構成点は94.78点に達した。彼が技術に比べて芸術面ではそれほど際立っていないことを考えると、客観的に見て少し過大評価だった。彼の演技構成点の合計は羽生の得点と近過ぎるし、2人の点差がたった1点というのは少な過ぎる。
しかし、だからと言ってネイサン・チェンの優勝の正当性と彼の熟達が揺るがされるわけではない。

 

限界を超えて

しかし埼玉における男子の大会はチェンと羽生の対決だけではなかった。他にも多くの重要な兆候が見られ、イタリアにとってもマッテオ・リッツォがフリーで4トゥループを転倒したにもかかわらず7位に入る健闘を見せた。
これが「世紀の大会」となったのは、エキサイティングなタイトル争いだけではなく、全体的の技術レベルの高さである。フリープログラムでは合計40本の4回転ジャンプが着氷され、2本がダウングレードだった。つまりこの進化は単独選手のパフォーマンスに限定されず、もはや男子シングル全体に広がっている。
しかも繰り返して跳べる4回転ジャンプ(内1本はコンボ)は一種類までという新ルールの定める制限がなければ、もっと高得点に達していたかもしれない。
どういうことかというと、ネイサン・チェンの先シーズンのフリープログラムは平昌オリンピックでもミラノ世界選手権でもクワド6本だったが、今シーズンは4本だった。
だから埼玉では得点(前述したように、採点システムの変更により、絶対参照はない)ではなく、到達したレベルと言う点においてこれまでに見たことのない大会が見られた。
だが4回転ジャンプの持つ影響力と、これらが芸術面より優先されることが良いか悪いかと言われれば、それは別問題である。

いずれにしても埼玉では史上最高レベルに達した。同じことが女子の大会についても言えるが、重罪以外の何物でもなかったコントロールパネルの判定とスキャンダラスな案件が幾つもあった演技構成点の評価が招いた「歪曲」のせいで、異なった考察をしなければならない。

男子シングルの話に戻るが、尋常ではない演技は上位2人の選手だけではなかった。
ヴィンセント・ジョウが3位に入り、表彰台を「アジア勢」が独占したことも強調したい。
確かに金と銅、2人のアメリカ人だったが、2人共もアメリカに移住した中国移民の子である。だからと言って彼らの成功が中国のおかげだと言いたい訳ではない。彼らの技術の基盤がアメリカ方式なのは疑う余地がない。
考察すべきなのは、チェンとジョウの体型である。彼らの体型は一般的な欧米人とは異なっており、どちらかというと羽生や中国のジン・ボーヤンの体型に近い。
もう一人の日本人、宇野昌磨の体型が彼らとは全く異なっていることを考えると、「人種」
の問題ではない。
問題は極限の難度を超えられる能力を身に着けるには、特定の体型を持つ選手の方が有利なのか、それともただ単に練習の仕方の問題なのかと言うことだ。
結果を見ていると、少なくとも現時点ではパワーより敏捷性のほうが重要だということが分かる。
何か変化がない限り、そして4回転ジャンプが褒賞される現在の採点システムが続く限り、勝てるタイプの選手の「特化」が進む可能性がある。

(非常に長いのでこの後のケヴィン・エイモズ、マッテオ・リッツォ他の話題はとりあえず省略します。時間が出来たらその内に訳すかもしれません)

*********************************
イタリア語ではフィギュアスケートのことを「Pattinaggio Artistico」(英語に直訳するとartistic skating)と言いますので、パトリックやハビのようなトランジションとジャンプを両立し、プログラムを1つの作品として「魅せる」ことが出来るコンプリートな選手が次々に引退し、4回転ジャンプ偏向で「Artistic」の部分が疎かにされている現在の男子シングルの傾向と、助走とジャンプしかなくても高いPCSを与えるジャッジに批判と不満を噴出させているイタリアのスケートファンは多いです(皆、羽生君に1日でも長く現役を続けて欲しいと切実に願っており、彼が引退したらフィギュアスケートは死ぬと言っている人さえいます)。

フィギュアスケートはあくまでもスポーツなので、ジャンプの技術が進化し、難度が向上していくのはいいことだと思いますが、スケーティングとかトランジションとかジャンプの入り/出もフィギュアスケートの重要な「技術」であり構成要素なわけですから、そこについても得点の然るべき項目で優れている選手とそうでない選手をきちんと差別化して欲しいです。

昨シーズン、これからは各エレメンツの質を重視する方向性で行くと言いながら、「選手達はみんな守ってないし、ジャッジも忘れているから」という唖然とする理由によってショートプログラムのソロジャンプの前のステップが廃止された時は、あきれて開いた口が塞がらなくなりましたが、今年もエッジエラージと回転不足のジャンプの基礎点を引き上げたり、GOEマイナス要件の一つ「長い助走」のマイナス幅を少なくしたり・・・

ISUは一体何をしたいのか・・・

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu