徒然なるままに

ここ数カ月の羽生結弦プロの活躍を見て、感じたことを思い付くままにつらつらと書いてみます(構想などを全く練らずに書き始めたので随所で脱線、支離滅裂ですがご容赦を)。


羽生結弦は泳ぎ続けていないと死んでしまうマグロだと思ったのは何時のことだったでしょうか?

ソチで金メダルを獲った後も全くペースダウンせず、中国杯では衝突事故の直後に頭に包帯を巻きながらも競技を続行し、満身創痍の状態でNHK杯に強行出場してファイナルの切符を掴み、そのファイナルで圧勝して見せた時も、開腹手術からすぐに競技に復帰して世界選手権で銀メダルを獲った時も、330点という誰を見たことのない異次元の得点を叩きした後、4ループや4ルッツを次々に習得した時も、平昌で二連覇を達成した後、すぐに4アクセル着氷という次の壮大な目標を掲げた時も確かにそう思いました。

しかしプロに転向した後、「泳ぎ続ける」彼の速度は一気にシフトアップし、下界の人間達が一世紀かけても成し遂げられないことをたった一人で驚異的なスピードで実行しようとしています。
惑星ハニューでは時間の流れる速度がこの地球とは異なるのでしょう。時速の単位がkm/h(キロメートル毎時)ではなくly/h(光年毎時)ぐらいの違い。

プロ転向が発表されたのが7月19日。その後にまず東京ドーム公演のオファーが来て、同時進行でプロローグの企画・制作を進め、ワンマンショーを滑り切るためのトレーニングを積んでいたことに仰天していたら、何と3つ目のアイスショー、Notte Stellataも準備中だったとは!

しかし、このNotte Stellataこそ、彼がプロになったら絶対にやりたいと決めていたことの一つなのではないでしょうか。現役中は通常、世界選手権が開催される3月にこのようなイベントを開催するのは不可能でしたから。

3つのアイスショーを企画・制作・準備しながら、ここ数カ月間における彼の活動は目覚ましいものでした。ユーミンとのラジオ共演、紅白の審査員、新動画投稿、内村航平さんとの対談、Every.生出演など、挙げればキリがありませんが、個人的に特に衝撃的だったのは、 フィギュアスケート仙台市長杯でのサプライズ演技とクラシックTVでした。

早朝から始まった大会に何の前触れもなく颯爽と現れ、完璧な「パリの散歩道」を披露して風のように去っていく、こんなことが可能なスケーターが他にいるでしょうか?アップも6分間練習も無しでいきなり「パリの散歩道」です!(しかもコンビネーションが3A-3Tにアップグレード)

「パリの散歩道」は当時、彼にしか滑れない超高難度のプログラムでした。後半に3Aとコンボを持ってきたジャンプ構成だけでなく、全てのジャンプ要素の前後に難しいステップが散りばめられ、トランジションが隙間なく詰めこまれているという点において、そしてそれら全てをギターが奏でる気怠いブルースに乗せて演じるという点においても。4回転ジャンプ1本のこのプログラムで彼は当時の世界最高得点101.45点を叩き出しました。現在のトップ選手達はショートプログラムに4回転ジャンプを2本入れていますが、今シーズン、彼がクワド1本の「パリの散歩道」で出したこの得点を超えられた人がいましたか?

これは彼にだけ可能な圧倒的なクオリティの各要素で満点に近いGOEを積み上げることによって到達した得点でした。ちなみにクワド1本の構成で国際大会でショート100点を超えたことがあるのは彼以外ではパトリック・チャンとミハイル・コリヤダだけです。パトリック・チャンもまた、苦手だった3アクセル以外の全てのジャンプ要素の前にステップを入れ、複雑で多彩なトランジションと素晴らしいスケーティングを持つ選手でした。

あれからほぼ9年が経過した現在も、「パリの散歩道」を同じ振付で、同じトランジションを入れて滑れる人は誰もいないでしょう(バックカウンターから3Aを跳ばなければならない時点で他の人には無理です)。そんな超高難度のプログラムが、今の彼にとっては早朝、アップも何も無しで、リンクに出て行ってサラっと滑れてしまうほど簡単なプログラムになってしまっていることは、フィギュアスケーターの通常のピークや年齢を考えると驚異的です。本人が言う通り、今の彼が一番上手いのでしょう。

クラシックTVの専門的な対談も最高でした。出来れば2ヵ月に1 回ぐらいの頻度で、毎回違う曲について語ってもらいたいぐらいです。

右手と左手で違う音階とリズムを取っているところが色んなところに散らばっている
て、スケーターの言葉じゃありませんよ、羽生様!

確かにショパンの楽曲は右手と左手の拍子が異なることが多く、片手ずつ地道な反復練習を重ねなければ、上手く弾けるようにはなりません。ピアノを弾く人間であれば知っていることですが、スケーターである彼が(おそらく楽譜は見ずに)耳だけでそれを聞き取り、理解しているだけでも驚異的なのに、右手を上半身、左手を下半身で表現って、もう意味が分かりません。

私は羽生君が現れる以前、フィギュアスケートはスポーツであるが故に身体表現としてはバレエに比べて限界があると思っていました。加速するためのクロスオーバーやジャンプ前の助走が必要なために、どうしても音楽から離れ、姿勢や腕の動作が疎かになる瞬間が生じるからです。特に4回転ジャンプを跳ぶ男子のプログラムでは、この「休止」時間は長く、その度に(例えあったとしても)プログラムの世界観が中断されます。しかし、羽生君はそんな枷を取り払い、高難度ジャンプさえも表現の一部にしてしまいました。曲調やアクセントに合わせて視覚的インパクトや特徴の異なるジャンプを使い分け、ただ曲に合わせて滑るのではなく、身体の全ての部分を使ってあらゆる音とリズムを表現します。だから彼が滑っていると、まるで彼自身が音楽を奏でているような、彼の身体から音楽が流れ出ているような印象を受けるのです。羽生結弦が如何に異次元だったのか。残念なことに競技の世界ではこのようなフィギュアスケートはもう二度と見られなくなってしまいました。

トリノ・ファイナルの解説中、マリカさんが、最近男子では前半は助走とジャンプ、あまり体力を消耗しない、しかしレベルを確実に取れるように巧く構築されたスローテンポのステップシークエンスを入れ、再び助走とジャンプの繰り返し、ジャンプを全部跳び終わったら派手でインパクトのあるコレオシークエンスで振付もちゃんとやっていることをアピールする、というスタイルのプログラムが流行っていると皮肉を言っていました。一方、マッシさんは、PCSからトランジションが無くなってしまったから、スケーター達は今後、パワースケーティングの練習ばかりするようになるだろう(スピード=スケーティングスキルと勘違いしているジャッジが多いため)。しかしこれがフィギュアスケートと言えるだろうか、と嘆いていました。

確かに、今シーズンの男子の試合では助走とジャンプばかり見ている気がします。ジャンプ前の長い助走の間、スケーターの動作や姿勢は美しくありませんし、見ている側には、音楽もストーリーも感情も伝わってはきません。プログラムに個性と世界観があり、プログラム全体が一つの作品になっていると感じられたのは個人的にデニス・ヴァシリエフスの演技だけでした。更にISUがショートのステップからのソロジャンプを廃止にしてしまったために、ショートプログラムさえも3本のジャンプ要素全てを長い助走から跳ぶ選手が多くなってしまいました。

他の選手達がやっている内容と比較し、GOEとPCSをルールブックのガイドライン通りに採点したなら、例え彼より基礎点の高い4回転ジャンプを跳ぶ選手であっても、ショートプログラムだけで少なくとも10点は差がつくべきでした。しかし、ルール通りに採点すると羽生結弦の一人勝ちになってしまうので、この数年間、ジャッジ達は彼がどんなに完璧に実施してもGOEとPCSを出し惜しみ、逆にライバル選手達にはルールの基準を無視した高得点を与えたために、得点は内容と反比例してどんどんインフレーションしていきました。今シーズンは羽生結弦が競技を引退したために彼のレベル合わせる必要性がなくなり、過剰にインフレしていた得点がソチの頃の水準に引き下げられたという印象を受けます。ソチの完璧な「パリの散歩道」のPCSが46.61だったことを考えると、最近の選手達は明らかに貰い過ぎでした。羽生君が2015年のバルセロナGPFで出した322.40と言う得点は、全て要素が完璧なクオリティで実施され、PCSの全ての要件がほぼ完璧に達成されたからこそ到達した得点なのです。

しかし、どんなに得点を操作しても、観客の心を掴むことは出来ませんでした。
観客が見たいのはどちらのフィギュアスケートでしょうか?
どこからどこまでがステップシークエンスとコレオシークエンスなのかがすぐに分かる最近流行りのプログラム?
それとも難解過ぎてジャッジには理解出来ない羽生結弦のプログラムでしょうか?
今シーズン開催された大会と羽生君のアイスショーの観客席がその答えをシビアに、はっきりと示しています。

競技時代にフィギュアスケートの身体表現としての可能性を最大限まで引き出した羽生結弦は、プロの世界で更にその先に進もうとしています。新しいジャンルの開拓。羽生結弦という未知のジャンル。もはやフィギュアスケートという括りには収まり切れない新ジャンルの創造。
もしかしたらスポーツと芸術の完璧な融合を目指しているのかもしれません。ここで言う芸術とは、フィギュアスケートや新体操などの競技で評価対象として定義されているいわゆる「芸術面」や「芸術性」ではなく、本物の芸術です。それがどんなものなのか想像も出来ませんが、東京ドームでは彼によって発明された新しい形の芸術が披露されることでしょう。プロローグが従来のアイスショーとは全く違うものであったように、GIFTも、その次に控えたNotte Stellataもそれぞれが独自とコンセプトとスタイルを持つ新しい形のショーになるのでしょう。

眩しい輝きを放ちながら前へ前へと進んでいく彼を妬み、誹謗中傷する人は残念ながら常に特定数存在します。光があれば影が生まれるのは世の常です。太古の時代から圧倒的なカリスマには常に彼らを邪魔しようとするアンチがいました。思えば、平安時代や室町時代といった中世の時代に生霊などと呼ばれていたのは、今でいうアンチだったのではないでしょうか。心理学や精神医学という学問が存在しなかった時代、嫉妬や羨望のあまり常軌を逸した行動に走り、憎しみをまき散らす人を人々は物の怪が憑いた、狐に憑りつかれたと恐れたのかもしれません。そして当時は精神科医の代わりに祈祷師や陰陽師が呼ばれたのでしょう。

生霊というと真っ先に思い浮かぶのが光源氏に恋焦がれるあまり彼の正室、葵の上を呪い殺した六条御息所です。彼女は架空の人物ですが、21世紀の現在もこういう人はいますね・・・怖い怖い😱

アンチの言動を見ていると、おそらく推しのスケーターがいるのでしょうが、その情熱の大半は自分の推しではなく、羽生君の情報を追いかけて難癖をつけることだけに向けられているようです。もはやアンチ活動に己の存在意義を見出しているような彼らを見ると哀れでさえありますが、極めて迷惑な存在ですから早く別の生きがいを見つけて成仏されることを願うばかりです。

東京ドームはアイスショーには向いてないだのワンマンショーではなく他のスケーターにも出演の機会を与えてスケート界を盛り上げるべきだの的外れな記事を書いている人を見かけましたが、所詮村の定規でしか物事を測れない人達なのだと思うだけです。自分の定規では測り切れない羽生君について書いても恥をかくだけですから、身の丈に合った、村のスケーターを応援をする記事を執筆した方が良いのではないですか?

羽生結弦は従来のアマチュア引退の概念を根本から覆しました。彼にとってはここからが本番なのかもしれません。オデュッセウスならトロイア戦争が終わったところでしょうか。そして前人未到の大海原に漕ぎだしていった羽生君の活動をリアルタイムで追える幸運。この時代に生まれてきたことを天に感謝しなければなりません。

クラシックTVを見て、改めてまたショパンの楽曲を滑って欲しいなあ、と思いました。
革命のエチュードとか、別れの曲とか。ホロヴィッツ版なら隣接著作権も切れているはずですよ。

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu