求道者の孤独と幸せを削るということ・・・

昨日、NNNドキュメント「職業・羽生結弦の矜持」を見ることが出来ました。

一言でいうと衝撃的な内容でした。いや「衝撃的」という言葉では足りないかもしれません。

北京で味わった苦しみと喪失感、競技を離れることが実はどんなに不安で怖かったのか、これまで彼があまり語らなかった本音が生々しく語られたところでは、胸が張り裂けそうになりました・・・

そしてプロになってからの華々しい活躍と成功が紹介され、西川のコマーシャル撮影の様子も公開されました。この撮影に8時間もかかっていたとは驚きです。彼が登場するCMや雑誌の数を考慮すると、普段の彼が如何に多忙なのか改めて痛感させられます。この日もCM撮影で8時間も拘束されていたにも拘わらず(移動時間も含めたらもっとでしょう)、軽く仮眠を取って夜のリンクへ。

ここで公開された練習が凄まじかったです。まさに身体と命を削る壮絶な練習に私は文字通り言葉を失いました。

初の単独ショー「プロローグ」を見た時、そして次のGIFTで、4回転ジャンプと3アクセルを含む12曲ものプログラムから成る3時間に及ぶ公演を最後まで滑り切るのを見た時、私は一体どうしたらこんなことが可能になのかと驚愕しました。しかも彼のプログラムはどれもステップやターン、振付要素といった競技では「Transitions」と呼ばれる要素がテンコ盛りですから、他のスケーター達のプログラムとは比較にならないほど体力を消耗するはずです。

そしてやはり12曲滑ったRE_PRAYでは、プログラムとプログラムの間の時間がGIFTよりずっと短くなっていました。あれでは、おそらく靴を脱ぎ、大急ぎで衣装を着替えて、靴を履き直し、髪を整えてすぐリンク、という状態だったでしょう。

一体どうやったらこのようなことが可能になるの???
この番組で、私達はその秘密の一部を垣間見ることが出来ました。

過酷で壮絶な練習の積み重ねと地道な反復練習

そして毎日、このような練習をやり遂げるには、鋼のように強い意志が必要です。彼の傍には叱咤激励してくれるコーチはいないのですから。
日々の血の滲むような努力によって、GIFTが可能になり、そしてRE_PRAYが可能になりました。

手書きの練習メニューも公開されましたが、凄まじい内容です。
最初のジャンプが4Lo-3A!
レペティションとは、いわゆるインターバルトレーニングのようなものですね。
私は中学生の時、中距離をやっていましたから、インターバルトレーニングはよくやらされました。皆で地獄のトレーニングなんて呼んでいたほど、本当にもの凄くハードです。私達がやっていたのは200メートル全力ダッシュ、200メートル軽くジョギングというのを10~12回繰り返すトレーニングでしたが、最後の方はもう死ぬんじゃないかと思うほどキツく、夏の暑い季節など、最後の一周が終わると全員その場に倒れ込んでしばらく立ち上がれませんでしたし、中には吐いてしまったり、具合が悪くなる子もいました。

彼はこれよりもっとずっとハードなトレーニングをこなしているのです。
深夜のリンクで、ずっと一人で・・・

彼の技術は明らかに進化し続けていますが、身体や筋肉の疲労回復にかかる時間は年齢と共に間違いなく遅くなっていきます。彼は聡明で人体やメンタルの仕組みを誰よりも研究している人ですから、色々なことを試し、自分にとって最も効率的かつ効果的なトレーニング方法を確立していったのでしょう。それでも、年齢を重ねるにつれて、疲労は蓄積しやすくなり、怪我のリスクも高まります。
GIFTの通し練習は衝撃的でした。このような過酷な練習方法を編み出したのも彼自身でしょうが、怪我をしないよう、身体の各部位のコンディションを把握し、毎日、自分の体調と対話しながらギリギリのところまでやる、という綱渡りのようなことをやっているのです。試合と違って彼の単独公演に代役はいません。彼が怪我をしたら終わりです。何という重圧と責任でしょう!

それでも彼はリスクの少ない「ひょーげんりょく重視」のショーにせず、4回転ジャンプや3アクセルを惜しみなく披露し、一部の最後で競技プロを滑り、アンコールでも競技プロをジャンプ入りでフルで滑ってくれるのです。
GIFTで一部の最後が試合仕様のロンカプと分かった時も度肝を抜かれましたが、RE_PRAYでは競技のフリープログラムとほぼ同じ構成のプログラムを一部最後の演目に持ってきました。本当にどこまで自分を追い詰めるのが好きな人なのでしょう!

フィギュアスケートの単独ショー自体が前代未聞ですから、このような公演に向けた体力強化やトレーニング方法の前例やメソッドはありません。私は専門家ではないので詳しくは分かりませんが、1日1回の本番にピークを合わせ、2分40秒または4分で力を出し切る試合とは、ピーキングやパワー配分が全く違うのではないでしょうか?

今の羽生君にはMIKIKO先生初め、各分野の「超一流」が周りにいて、彼のパフォーミングアートの創作をそれぞれの専門分野から支えています。しかし、ことスケートに関しては、彼は今もずっと一人なのではないかと思います。従来のフィギュアスケートのレベルをとっくに超越し、更にその先を追及し続ける彼に、スケートで何か教えられる人は少なくとも日本には存在しないでしょう。彼が今試みていることは、フィギュアスケートの枠を超えた全く革新的な何かですが、全てはフィギュアスケート教本通りの一点の曇りもない正しい技術に裏打ちされています。だからこそ28歳になってもこれほど美しいジャンプやスピンを実施し続けることが出来るのです。

この意味においても、彼はフィギュアスケートの求道者と言えます。そして、スポーツでも音楽でも学問でも、その分野の求道者と呼ばれる人は孤独です。ここで言う孤独とは、家族がいないとか、独身とかという意味ではありません。道しるべも何もない、未知の領域を一人で探求していくという意味においてです。

プロアスリートとしての未来について彼は、真っ暗だけれど、無限大の可能性がある、と表現しています。アマチュアアスリートであれば、毎シーズン試合という定期イベントがあり、選手達はそこをベースにスケジュールを組んでいきます。例え、競技団体や国内連盟がどんなに腐敗していても、競技会場にどんなにお客が来なくても、テレビ放送の視聴率がどんなに悪くても、その競技が存続する限り、試合がなくなることはありません。しかし、プロスケーターとなった今は、自分を見せる機会を自分で切り開いていかなければなりません。その意味で、真っ暗闇の中を進んでいくような感覚があるのかもしれません。

勿論、彼ほど実績と人気のあるスケーターなら、既存のアイスショーに出来るだけ多く出演する、という選択肢もありますが、どんなに歴史あるアイスショーでも、競技会と違って、存続を保証されている訳ではありません。そして、現在の日本のアイスショーでは、彼が思い描くことを具現化するのは無理だと思います。彼の頭の中にあるフィギュアスケートの観念はあまりにも前衛的でスケールが大きく、既存のショーやエンターテイメントでは到底収まり切らないでしょう。

そこで、彼はファンが最も望んでいた、しかし誰も実現可能とは思わなかった、新しい形のパフォーミングアートを発明してくれました。最初から最後までずっと彼だけを見ていられる単独公演、過去現在の複数のプログラムで紡ぐ壮大なアイスストーリー。これはプロになったからこそ可能になった夢のエンターテイメントです。そしてこれからも、新しい可能性は無限大に広がっていくのでしょう。この驚異的なパフォーミングアートに命を吹き込むために、彼がどれほどの犠牲を払っているのか、リスクを冒しているのか、今回のドキュメンタリーは私達に見せてくれました。

アイスショー「羽生結弦Notte Stellata」の千秋楽で、羽生君は「自分の幸せを削ってでも、ずっとずっと全て背負って、羽生結弦として進んでいくんで、どうか応援してください」と言いました。
その言葉の通り、彼は自分の幸せを削り、身体を削り、命を削りながら、競技時代のように試合に勝つためではなく、ファンに見せるために全身全霊でスケートに打ち込んでいます。この彼の言葉を「孤独=独身」「幸せを削る=結婚しない」と勝手に解釈して、嘘つきだの騙されただのと彼を批判した人達はなんと短絡的で愚かなことか(義務教育の国語さえもまともに勉強してこなかったのでは?と疑うレベルの読解力です)。

彼はこれからも真っ暗だけれど、無限に広がるブラックホールのような未知の世界をまっしぐらに邁進していくのでしょう。その先に何があるのか誰にも分からないけれど、確かなのは、私達が歴史を目撃しているということです。

結弦君
北京で負った心の傷、あの時に感じた「報われなかったと」という気持ちが消えることはないと思うけれど、東京ドームで、たまアリで、そしてこれからの佐賀や横浜のアリーナで、あなたのスケートに熱狂する観客が天井席まで埋つくす光景を見て、少しでも「報われた」と感じてくれることを願っています(願わくは私もその観客の一人になれますように🙏・・・)。そして、いつか自分の選択が正しかったと心から納得出来る日が来ますように・・・

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu