3.11と私、そして羽生結弦

3.11と私

2011年3月11日のあの日、東日本、特に東北地方に壊滅的な被害をもたらした地震は、私の価値観と人生を変えました。

私は日本に帰国中で、あの時間、大河ドラマ「篤姫」の再放送を見ていました。
カタカタと揺れ出して「あれ?地震?」と思った瞬間、揺れは激しくなり、食器棚のガラスがガタガタと音を立てて揺れ始めました。
すぐにその前の週にニュージーランドで起こった地震のことが頭を過りました。
語学学校のあったビルが倒壊し、多くの日本人学生が建物の下敷きになって亡くなっていました。

「家が倒壊するかもしれない」

私は恐ろしくなって窓から庭に飛び出しました。揺れは中々収まらず、一旦収まったと思ったらまた揺れ始めました。揺れていたのは6分だったそうですが、もっとずっと長く感じました。揺れが収まるとすぐに家の中に戻って、テレビを点けました。
どのチャンネルも一斉に緊急ニュースに切り替わり、被害の大きな東北地方の映像を中継で流し始めました。テレビ画面に映し出される映像に私は自分の目を疑いました。現実とは思えない恐ろしい光景が飛び込んできました。堤防を破壊し、凄まじい勢いで陸地に流れ込む津波、車ごと高架を呑み込む高波、玩具のように流されていく家屋・・・自分の見ているものが信じられませんでした。

都心で勤める父や弟達とようやく電話が繋がったのは夜になってからでした。
翌日、福島原子力発電所の事故が発生し、事態は最悪の方向に向かっているようでした。月曜日から計画停電が始まり、列車は運休か間引き運転になりました。ガソリンは手に入らず、スーパーやコンビニから食品や日常必需品が消えていきました。

やがてイタリアに戻る日がやって来て、私は親兄弟を残して自分だけが安全なイタリアに逃げるような気がして、後ろ髪を引かれる思いでしたが、米やパンなどの食料が全く手に入らないこの状況では、一人でも口数が少ない方がいいのだと自分を納得させてイタリアに戻りました。
仙台の私の親友は特に被害の酷かった地区に住んでおり、電話は勿論繋がらず、私は彼女の安否を知るために安否確認サイトにメッセージを残しましたが、避難所にいた彼女が人伝に私のメッセージを知り、無事を知らせてくれたのは4月に入ってからでした。

イタリアに戻ってからも、被災地と原発のニュースを毎日追っていました。その中で私が何よりも衝撃を受けたのは、このような過酷な状況の中でも互いに助け合う被災地の人々、そして自らの命を犠牲にして他者を救おうとした人々の姿でした。寒く、食糧も水も不足している避難所で不平を言わず、より弱い人を助けようとする人達、逃げる市民を高台に誘導するために最後まで交差点に立ち、茶色い波に飲み込まれていった警察官(高台に逃げた人達は彼に向って「波が来る、早く逃げて!」と叫んだそうです。高台に避難していた私の親友の目の前でその警察官の方は波に飲み込まれていったそうです)。自らの命を危険に晒しながらメルトダウンを阻止するために福島原発で必死の作業を続けた作業員の人達。既に定年退職していた年配の方々が、まだ小さな子供のいる若い元同僚達に変わって作業するために原発に戻ってきたそうです(その中の何人かはその後、ガンで亡くなられました)。

今の時代に自分の命を投げ出してまで何かを守ろうとする、戦国武士のような人達が存在することに私は衝撃を受けました。そして自分を取り巻く安全な世界、平和な生活は決して当たり前のことではなく、一瞬で崩壊し、無くなってしまうことがあるのだということを知りました。
自分の価値観が大きく変わった瞬間でした。

例え微力でも、自分も被災地のために何かしたい、自分に出来ることは何か、という強い気持ちに駆り立てられて起こした行動がきっかけで、今の自分があり、今の人生に繋がっています。被災者の人達が困難に立ち向かう姿に感動し、何かをしようと思い立ったことが、私の人生の転機になり、そのことを私は一生、被災者の人々に感謝し続けなければならないと思っています。

羽生結弦
私が羽生君を知ったのは、震災直前の四大陸選手権でした。しかし、彼が仙台出身とは知りませんでしたので、彼が被災して避難所で過ごし、60以上のチャリティアイスショーに出演しながら練習を続けていたというエピソードを知ったのは翌シーズンの全日本選手権の前でした。

日本人離れしたスタイルを持つ前途多望な少年、という私の中にあった羽生結弦のイメージに、逆境を乗り越え、被災地を支援するチャリティショーに出演しながら全日本までやって来た健気で強い意志を持つ少年というイメージが加わり、ますます応援したいと思うようになりました。

全日本のフリーは誰よりも素晴らしい演技で銅メダルを獲得し、世界選手権の切符を掴みました。世界選手権の代表発表の後、各代表選手達が挨拶するのですが、この時、羽生君が「世界選手権はハッピーエンドで・・・あれ?ロミオだからハッピーエンドじゃないのか・・・」みたいなことを言っていて、凄く可愛くて初々しかったのをよく覚えています(この時、私は既に彼のファンでしたが、まだ沼には落ちていませんでした)。


そしてニースの世界選手権がやってきます。
ショートは最後のルッツがパンクして7位でした。
伊ユロスポ解説日本語字幕付き

あああ~残念!!でも初出場だし、まだ17歳だし!と思ったことを白状しなければなりません。
この時はまだ私はフリルを来た阿修羅とか歩く少年ジャンプと呼ばれるような彼の苛烈な側面を知りませんでした(だってあんな可愛い顔で、実は手負いになると手が付けられないほど狂暴になる虎の魂を持っているなんて誰が想像出来ますか?)

そしてフリー
伝説が生まれました。

私はテレビの前で、感動に打ち震えながら、信じられない、信じられない、と繰り返しながら頭を抱えていました。つい数週間前、横浜のアリーナでそうしたように・・・

そしてフリーの後、このインタビューの動画を見て、私は雷に打たれたような衝撃を受けました。

被災し、練習場所を失い、将来の不安を抱えて葛藤し、苦しみながら1年間を過ごした17歳になったばかりの少年が、これほど重いものを背負うことを受け入れ、それどころか感謝すべきは自分の方だという。
何と美しい心、純粋な魂を持った男の子なのだろう・・・
心から彼を応援したいと思いました。

この後も、運命の女神は彼に過酷な試練を与え続けます。
しかし彼は決して自分の宿命から逃げず、何度奈落の底に突き落とされても不死鳥のように蘇り、その度に前より強くなり、自分の味わった苦しみや悲しみをスケートという彼の芸術に昇華させてきました。
だからあのカルミナ・ブラーナなのです。
あの作品は表面的に演じられるものではありません。彼が生きた人生そのものが凝縮されているからあれほど鮮烈で、見る者に強烈なインパクトと感動を与えるのです。

素晴らしかったNotte Stellata
各プログラムについては改めて感想を書きますが、単独公演で主演・制作総指揮を務め、多忙を極めていた彼が、このアイスショーのためにこれほどのクオリティの新プログラムを2つも用意していたことに驚愕しました。
何という人でしょう!
言葉で綺麗なことを言うのは簡単です。
でも彼はいつも行動で、それも多大な努力と犠牲を伴う行動でそれを示してきました。
この素晴らしい傑作を被災地に届けるために、どれほど過酷な練習を積み重ねたのでしょうか。
彼のやることには私はいつも驚嘆させられ、考えさせられ、前に進む燃料を貰います。

日本は震災大国です。未だに震災の傷が癒えず、通常の生活を取り戻せず、苦しんでいる人達が日本中に大勢います。
私達は常にそのことを心に留め、ささやかでも自分に出来る何かを続けなければなりません。

日本赤十字社の国内災害義援金・海外救援金受付

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu