Sportlandiaより「再びGOATについて」

以前に翻訳した「羽生結弦とGOATを巡って」を補足する記事です。

相変わらず長いですが、フィギュアスケート史のお勉強タイムです😉w

 

原文>>

マルティーナ・フランマルティーノ著
(2021年2月19日)

私は男子フィギュアスケートのGOATについての考察をイタリア語と英語で書きました。しかし、コンセプトをより明確にするために、幾つか補足することにしました。

 

オリンピックでメダルを取るのは大変なことです。私の「永遠のお気に入り」の選手の一人にカート・ブラウニングがいます。カートは1989年から1993年にかけて出場した世界選手権5大会で金メダル4個(3連覇を含む)、銀メダル1個を獲得しています。1988年には史上初めて4回転ジャンプを成功させたスケートと認定されました(他にも3S+3Loのコンビネーションを初めて成功させ、フリープログラムで初めて3A+3T, 3Lo+3S, 3F+3Tの3-3のコンビネーションを3本成功させた スケーターでもあります)。ブラウニングは(特定の期間において)技術面も芸術面でもナンバーワンでした。そして54歳になった今も、彼のステップシークエンスは素晴らしいクオリティです。しかしながら、オリンピックに3度出場し、内2大会は金メダルの本命と見なされていたにも拘わらず、五輪メダルは1個も取ることが出来ませんでした。

時には運に助けられて勝つこともありますが、五輪メダルを取るのは本当に難しいことなのです。初出場で五輪メダルを獲得するのは更に困難です。そしてオリンピック金メダルを取るのは更にもっと難しいことです。初出場でオリンピック金メダルを獲得するのは更に途方もなく困難なことです。まして金メダル2個となると・・・

そこで私は第二次大戦以降、誰が五輪メダルを取ったのか調べてみました(男子のみ)。まず各大会の全てのメダリストのスクリーンショットを撮っていきましたが、あまりにも分かりにくいので表を作成しました。私は4列に分け、左から最初の列に初出場で五輪金メダルを取った選手、2列目に2度目の出場で金メダルを取った選手(既に初出場で金メダルを取り、2度目の出場でも金メダルを獲得した選手は入れませんでした)、3列目は3度目の出場で金メダルを取った選手の名前を記入しました。その次の列からは初出場、2度目、3度目、4度目の出場で銀メダルまたは銅メダルを獲得した選手を記入しました。初出場のオリンピックでメダルを取り、2度目のオリンピックで金メダルを取った選手は両方の列に名前を記載しました(該当する選手が3人いましたので、名前を斜体にしました)。

初出場で勝つことは、膨大なプレッシャーがかかる上、スケーターの経験が不足しているため、本当に困難なことなのです。最も重要なスケーター達を詳しく見ていきましょう。

イリア・クーリックのキャリアは本当に短いものでした。彼は20歳と267日の若さで金メダルを獲得しました。彼より若くして金メダリストになったのはディック・バトン(18歳と202日)、羽生結弦(19歳と69日)、アレクセイ・ウルマノフ(20歳と94日)、ヴォルフガング・シュヴァルツ(20歳と155日)だけです。それ以前の彼は世界選手権に3度だけ出場し、銀メダルを1個獲得していました。彼は欧州選手権で金メダルと銅メダルを1個ずつ、グランプリファイナルでも金メダル1個を獲得しました。もっと長く現役を続けていたら、もしかしたら彼はもっと勝っていたかもしれません。彼はチャンピオンで、称賛に値しますが、圧倒的だったと言うにはトップに君臨した期間が余りにも短過ぎました。

ヴィクトル・ペトレンコのキャリアはより長く続きました(彼が1年間アイスショーだけに専念した後で出場した自身最後のオリンピックを考慮しなくても)。彼はオリンピックで銅メダル1個、金メダル1個を獲得し、世界選手権で金メダル1個、銀メダル2個、銅メダル2個、欧州選手権では金メダル3個、銀メダル1個、銅メダル2個でした。彼の時代にはグランプリファイナルは存在しませんでした。

ペトレンコはクーリックよりは多く勝ちましたが、1989年から1991年までの世界チャンピオンは彼ではなく、カート・ブラウニングでした。ペトレンコは手強いライバルでしたが、当時の最高の選手ではありませんでした。1991-1992年シーズン、カート・ブラウニングは五輪の1か月前に背中を負傷しました。彼はオリンピックで競技すべきではありませんでしたが・・・そこにオリンピックがあったから・・・彼は出場しました。ブラウニングのフリースケーティングは滅茶苦茶でした。大会は本当に低調で、私が読んだ数冊の本によれば、銀メダリストだったポール・ワイリーも完璧ではありませんでしたが、ペトレンコよりはいい演技でした。 ペトレンコが勝ち、数か月後の世界選手権でも調子はオリンピックより良かったものの、健康状態が万全ではなかったブラウニングを上回って優勝しました。ペトレンコは強く、幾つかの大会ではベストでしたが、彼の時代のナンバーワンではありませんでした。

デヴィッド・ジェンキンスとエフゲニー・プルシェンコはクーリックとペトレンコよりGOATの地位に近かったと言えます。デヴィッドの家族はフィギュアスケートを支配しました。彼の兄のヘイズ・アラン・ジェンキンスは、世界選手権で4大会連続金メダルを獲得し、1956年のオリンピックで金メダルを獲得しました。オリンピックで兄弟が一緒に表彰台に上った唯一のケースです。 1961年にヘイズ・アランと結婚したキャロル・ヘイスは世界選手権で5度金メダルに輝き、1956年のオリンピックで銀メダル、1960年のオリンピックで金メダルでした。しかし、以前にも書いたように、彼は既にフィギュアが強い国のスケーターでした。デヴィッド・ジェンキンスが五輪で金メダルを取った時、既にアメリカのスケーター達が4大会連続で金メダルを獲得しており、デヴィッドはアメリカにとって5人目の金メダリストでした。プルシェンコはロシアにとって5大会連続5人目の金メダリストでした。つまりその国の史上初だったディック・バトンと羽生結弦より簡単だったのです。

ジェンキンスは五輪金メダルの前に五輪銅メダルを獲得していました。そして金メダルの後、数か月後の世界選手権には出場せずに現役を引退しました。プルシェンコは五輪銀メダルの後に五輪金メダル、そして金メダルの後、休養しました。彼には治療すべき怪我もありましたが、当時は勝利に満足したため、しばらくの間、競技から離れたのです。

アイスダンスのGOAT、ジェーン・トービルとクリストファー・ディーン(おそらく、彼らを上回れるのはテッサ・バーチュ/スコット・モイアだけでしょう)は自叙伝『Our Life on Ice』の中でこう語っています。

勝利には刺激と中毒性がある。それはやがて全てを消耗するようになる。ひとたび成功を味わうと、巨大な磁石のように引き込まれ、そのことに気が付く前に全人生を乗っ取られる。しかし、まさにこれこそが世界中の全てのスポーツ選手が目指していることなのだ。ベストになりたいなら、スポーツに専心しなければならない。

チャンピオンになることより、チャンピオンであり続ける方がずっとキツイ。頂点にいる時、あなたが行ける場所はただ一つ、それは下に向かうことだ。我々はいつもそのことを強く意識していた。追い抜かれたくないなら、前進し続けなければならない。

チャンピオンになることより、チャンピオンであり続ける方がずっと大変なのです。最大の勝利の後、引退または一時的に休養したスケーターが何人いるでしょうか?羽生結弦は、オリンピック金メダルを獲得した同じ暦年のグランプリファイナルに出場した唯一のオリンピックチャンピオンです。そして彼は優勝しましたが、それ以上に単に出場したことがあるのも彼だけでした(彼の後、アリーナ・ザギトワも金メダルを獲得した五輪と同年のファイナルに出場しました)。 バーチュ/モイアでさえも五輪で勝った年のグランプリファイナルには出場しませんでした。確かに、テッサは手術しましたが、羽生の五輪翌シーズンも負けず劣らず困難なものでした。ハン・ヤンとの衝突時期を覚えていますか?グランプリファイナルの1か月前の出来事です。更に、尿膜管の手術もありました。グランプリファイナルで彼は既に痛みを感じており、それから3週間足らずで手術を受けました。本来ならもっと早く手術すべきでしたが、彼は全日本に出場することを望んでいたため、痛みのことはずっと黙っていました。

バトンの時代にはグランプリファイナルは存在しませんでしたが、オリンピック金メダルの後、全く立ち止まらなかったのはバトンと羽生だけです。羽生は2度目のオリンピック金メダルの後さえ立ち止まりませんでした。そしてこのようなことをやってのけたのは彼だけです。

40年代-50年代にはフィギュアスケートはそれほど世界に普及していませんでした。1947年の世界選手権に出場した男子スケーターはたった5人でした。バトンは15人以上の選手と対戦したことは一度もありませんでしたし、ライバルは常にごく少数の限られた国のスケーター達でした。バトンのライバル達の出身国を黄色で着色しました。

更に羽生のライバルの出身国も黄色で着色しました。

おそらく羽生にはバトンより多くのライバルがいました。そして私はブラジルのスケーターは弱過ぎて羽生のライバルとは見なされないと主張して、この現実の重要性を下げようとする試みは一切受け入れません。1948年と1952年にはスペイン人の強いスケーターなどイメージすることさえ出来ませんた。1956年のダリオ・ビジャルバ以来、2010年のハビエル・フェルナンデスまでオリンピックに出場したスペイン人スケーターは存在しませんでした。フェルナンデスの最初の世界選手権では誰も彼が世界チャンピオンになるとは思っていなかったでしょう。強いスケーターがどの国から出てくるのか事前に予測することは出来ません。

ここで質問です。もし羽生のライバルにスペイン人のスケーターがいなかったら、彼は何度世界選手権で勝っていましたか?

強いスペイン人スケーターが如何に特別なことだったのか理解するために、私は世界選手権(B-D列は男子、F-G列が女子、H-I列がペア、J-K 列がアイスダンス) とオリンピック(世界選手権と同じ順番)における全てのスペイン選手の結果を調べてみました。最下位、または最後から2番目で大会を終えた選手は斜体で表記しました。1986年以降、最上位の選手のみフリーに進める、という状況がデフォルトになっていました。1986年以降、フリープログラムを滑った選手は太字表記にしました。

このデータは弱小国からも時にはチャンピオンが出現することを物語っていますが、弱小国では誰もスケートをしなれば、スケーターは生まれません。最初のスペイン人スケーターであるダリオ・ビジャルバはスペイン領事の息子でした。彼は11歳の時、フィラデルフィアでスケートを始め、14歳でスペインに戻った後、彼の国では唯一のリンクが小さく、メンテナンスが不十分だったため、シャモニーでトレーニングを続けました。 2年後、自身最初で最後となったオリンピックと世界選手権に出場しました。その後、スペイン人のスケーターが再び世界選手権に出場するまで何年も待たなければなりませんでした。しかし、これはまさに現在に共通する状況です。

フェルナンデスは2008年夏までスペインで練習した後、アメリカでニコライ・モロゾフに師事し、強くなりました。現在ではスケーター達は国籍に関係なく(費用を捻出することが可能なら)最高のコーチの元に行くことが可能です。昔は簡単なことではありませんでした。日本もバトンの時代に世界選手権やオリンピックに選手を派遣していた国の一つでした。1977年に世界選手権で初めて銅メダルを獲得した佐野稔までの日本のスケーターの成績を見てみましょう。

以下は2年前に書いて投稿していなかった文章です。当時はインターネットが存在しなかっただけでなく、テレビでさえ大会が放送されていなかったことを思い出さなければなりません。他国で何が行われているのか把握するのは困難であり、弱小国にとってはコーチがいなければ自国のスケーターを育てるのは不可能でした。

日本人スケーターが国際舞台に最初に登場したのは老松一吉が自ら旗手を務めたオリンピックで9位、世界選手権で7位、帯谷竜一がオリンピック12位、世界選手権8位に入った1932年のことでした。友人に誘われて偶然フィギュアスケートを知った老松はスケートの虜になり、1908年オリンピックのスペシャルフィギュアスケートの金メダリスト、ニコライ・パニンが執筆したスケートマニュアルを使って独学で練習を始めました。 当時の日本には非常に小さなアイスリンクが一つしかなく、冬になると選手達は凍った湖で練習していました。老松と帯谷にとってオリンピックは驚天動地の体験でした。ギリス・グラフストローム、カール・シェーファ、ソニア・ヘニーを見て、彼らはフィギュアスケートの可能性を理解し、自分達が谷底にいる感じ、トップ選手達を見ることに夢中になり、進化したいと言うモチベーションを得ました。1936年には新たな日本代表団が国際大会に出場しました。片山敏一が老松(五輪20位、世界選手権15)、渡辺善次郎(五輪21位、世界選手権16位)、長谷川次男(オリンピック23位、世界選手権17位)を上回ってオリンピック15位、世界選手権13位でシーズンを終えました。日本人スケーターでオリンピック、世界選手権共に最も優秀な成績を収めたのは12歳の稲田悦子でした(五輪、世界選手権共に10位)。2度目の出場となった1950年の世界選手権では稲田は21位でした。彼女と共に日の丸を背負って大会に出場した有坂隆祐は男子シングルで11位でした。

戦争は国を数年後退させ、世代間のギャップを生み出しました。 1952年、日本スケート連盟は、その年の世界選手権で2度目の銅メダルを獲得したヘイス・アラン・ジェンキンスと、オリンピック銀メダリストのテンリー・オルブライトを素晴らしいエキシビションツアーに招待しました。 佐藤信夫は「我々皆はテレビ放送や演劇のドキュメンタリーや在カナダ日本大使の息子である徳川家秀が30年代初頭に撮影した写真を通してプログラムの幾つかの断片しか見たことがなかったため、スケートについて何も知らなかった」と回想しています。日本人はアメリカのアスリート達に憧れ、彼らを撮影し、出来るだけ多くのことを学びました。

従って、有坂はバトンと共に競技しましたが、当時の日本には実質フィギュアスケートは存在しませんでしたから、2人のスケーターは全く別のレベルでした。このような現実は少なくとも佐藤信夫までの数年間続きました。バトンには少数の国のごく僅かなライバルしかいませんでした。バトンの時代にはスケート界に存在しなかったスペインを削除すると、バトンと羽生は同じ数だけ勝ったことになります。勝利に「タラレバ」はありませんが、現在のフィギュアスケートでは勝つことはより困難になっていますので、数字だけで比較するのは不可能です。そこで他の観点からも考察してみました。

ちなみに、バトンの時代にスケート界に存在しなかった3つの国、スペイン、ロシア、カザフスタン出身のスケーターがいなければ、羽生の成績は以下のようになっていました:

  • 13歳で出場した自身初めてのジュニアグランプリ、メラーノ杯は5位ではなく3位[RUS、RUS](+銅メダル1個)
  • 14歳で初出場した世界ジュニア選手権は12位ではなく10位[RUS、KAZ]
  • 2010年のロステレコム杯は7位ではなく6位
  • 初出場の2012年のグランプリファイナルでは4位ではなく3位[ESP](+銅メダル1個)
  • 2013年の世界選手権は4位ではなく2位(+ワールド銀メダル1個)
  • 2014年の中国杯では2位ではなく1位[RUS](+金メダル1個)
  • 同年のNH杯は4位ではなく3位[RUS](+銅メダル1個)
  • 2015年と2016年の世界選手権は2位ではなく1位[EPS](+ワールド金メダル1個)

メダルが4つ増え、世界選手権は銀メダル1個と金メダルが2個増えることになります。世界が広がると、勝つのはより困難になります。

それでは第二次大戦後の状況を見てみましょう。

アリーナが使用可能だったことは北米スケート界の第一次黄金期の主要な要因だった。戦争で荒廃したヨーロッパとは対照的に、カナダと米国のリンクは第二次世界大戦を生き延びただけでなく、戦時中もほとんどが営業したままだった。カナダ選手権が中止されたのは1943年の一度だけで、1944年は女子スケーターのみが出場した。一方、全米選手権は1944年と1945年の男子シングルの試合のみが中止になった。(スティーブ・ミルトン著「Figure Skating’s Greatest Star」117ページ)

 

ヨーロッパの問題は閉鎖されたリンクとナショナル選手権が無くなったことだけではありませんでした。死者も多く、アメリカのスケーターよりヨーロッパのスケーターの方が戦争によって多く殺されたのではないかと私は疑っています。フレデリック・トムリンズは私が知る唯一の本当に強かった選手ですが、おそらく多くの有望なスケーターは国際大会に一度も出場出来なかったのではないかと思われます:

戦争がヨーロッパの多くの地域を荒廃させる前は、フィギュアスケートはヨーロッパ人によって支配されていた。[…]しかし、戦闘機が大地を爆撃し、1939年から1945年までの6年間に及ぶ政争が多くの人命を奪った時、ヨーロッパ大陸ではこのスポーツは壊滅的な打撃を被った。

多くの国ではアスリート達は飢餓に瀕していた。リンクが消え、そしてコーチも消えた。戦前のより平和な時代に、ソニア・ヘニーを指導したアメリカのトップコーチ、ハロルド・ニコルソンは、ヨーロッパの主要な教育機会に近づくためにイギリスに移住した。 しかし終戦後、コーチ達は生計を立てるために逆方向-カナダーアメリカに避難した。

「スケートをする人は誰もいませんでした」オランダのナショナルチャンピオンで1951年にカナダに住んでいたエレン・ブルカは言った。「ヨーロッパは5年間死んでいました」優れたコーチもいなかった。イギリスには幾つかのリンクがあったかもしれないが、1950年代まで実質スケーターは誰もいなかった。

「北米人はとても幸運でした。彼らはスケートを続けることが出来ました。そしてヨーロッパにライバルはいませんでした」(ビバリー・スミス著「 Figure Skating. A Celebration」29ページ)

 

このような理由により、おそらくバトンの方が羽生より頭角を現し易かったのかもしれません。

彼のライバル達を見ていきましょう。数字が2つある場合は分数の様に/で区切って表記しました。例えば1948年オリンピックのキラーイ・エデの欄は5/2と表記されています。彼は男子シングルで5位、ペア(ケーケシ・アンドレアと組んで)で銀メダルでした。そして何人かのスケーターがやったように、2つのカテゴリーで競技するのはよりハードです。

年齢別にスケーターをリストアップしましたが、いつ生まれたのか分からない人もいます。1948年のオリンピックの時、バトンは弱冠19歳でしたが、1938年の世界選手権に既に出場していたゲルシュヴィラーは28歳になろうとしていました。ピーク年齢の大会を戦争によって奪われた選手の一人です。イギリス移住後の数年間、彼は週に1日しか練習することが出来ませんでした。バトンより経験豊かなスケーターは3人だけで、内2人はスポーツ選手としては年を取り過ぎていました。バトンは1948年のオリンピック以前はあまり経験がありませんでしたが、これについてはライバルのほぼ全員が同じ条件でした。

羽生については彼の最初のオリンピックまでの世界選手権またはオリンピックの上位10選手についてのみ調べました。ほぼ全選手が彼より年上です(しかしそれほど年上でもありません。ソチの高橋は27歳で平昌のフェルナンデスの年齢です。そして、もし羽生が北京に出るなら同じ年齢になります)。

羽生は自分と同じくらい経験の浅い選手達と対戦したのではなく、彼よりずっと経験豊かで強いスターター達と対戦し、彼らに勝ったのです。これは非常に難しいことです。初めてのオリンピックでは多くのスケーターが緊張をコントロールできず、混乱します。

ここ数ヶ月間、パンデミックのために閉鎖されたリンクの再開後、世界中の何人かのスケーターが、自分の身体に自信を持ってスケートに戻ることの難しさについて語っています。彼らは皆、身体のコントロールを取り戻しましたが時間が必要でした。今、全てのスケーターがこの問題に直面しています。

しかし、羽生は既に2度もホームリンクを失っています。9歳の時、経営難でホームリンクが閉鎖されました。彼はリンク(そしてコーチ)を変えることを余儀なくされ、決して簡単なことではありませんでした。そして、16歳の時、東日本大震災でスケートリンクが破壊され、数か月間、練習場所を求めてアイスショーに出演し続けました。彼にとって練習するためのアイスリンク(質の悪い)を確保出来る唯一の方法だったのです。

バトンはリンクの問題を抱えていたスケーター達を圧倒しました。一方、羽生は彼自身がリンクの問題を抱えるスケーターでした。

最後にエレン・ブルカの言葉を引用します。彼女はペトラ・ブルカ、トーラー・クランストン、ドロシー・ハミル、クリストファー・ボウマン、エルビス・ストイコ、パトリック・チャンといった五輪と世界選手権のメダリスト達のコーチを務めていましたから、彼女の言葉には耳を傾けるべきでしょう。ヨーロッパにはスケートをする人も、優れたコーチもいませんでした。ヨーロッパのスケーター達はリンクもコーチも存在しないという苦境に立たされていました。

コーチ達はどこにいたのでしょうか?

バトンはスイス人のギュスターヴ・ルッシの指導を受けていましたが、アメリカに行ったのはルッシの方でした(戦争のずっと前、1919年のことです)。

世界選手権デビューの直後、羽生はブライアン・オーサーの指導を受けました。しかし、カナダに行ったのは英語の話せない羽生の方でした。状況はずっと困難だったはずです。

バトンは確かにより多く勝ちました(もしスペインのスケーターがいなければ、2人が世界選手権で優勝した数は同じでしたが)。しかし、2015-2016年シーズン、羽生が最強のスケーターではなかったと思っている人がいるでしょうか?彼は11月末から12月前半にかけてこのシーズンで最も鮮烈で印象的なプログラムを披露しました。NHK杯における羽生のショートプログラムとフリースケーティングは圧倒的でした。彼のプログラムはこれまで誰が滑ったどの演技よりも遥かに優れており、フィギュアスケートに革命を起こしました。そして2週間後、彼は自らの記録を塗り替えました。そこでは彼がいて、その遥か遠くに他のスケーター達がいました。その3か月後に私達が世界選手権で見たようなベストのフェルナンデスさえ比較になりませんでした。大会全体(SP+FS)について話せば、フィギュアスケート史上、彼がこの大会で成し遂げたことと比較出来る人は誰もいません。しかも彼は2大会連続でやってのけたのです。個々のプログラムについても彼は2大会連続で自分自身を超えて見せたのです。

1962年の世界選手権におけるドナルド・ジャクソンのフリースケーティング(フィギュアスケート史上初の3Lzを成功させますが、彼のこのプログラムは1本のジャンプよりずっと価値がありました)のように、このスポーツの歴史に刻まれた大会はあります。羽生はこのシーズンの世界選手権でこそ優勝しませんでしたが、僅か一カ月足らずでフィギュアスケートを永久的に変えてしまったのです。

2年連続で世界チャンピオンはハビエル・フェルナンデスでしたが、フェルナンデスを含む全ての人が、彼が勝ったのは羽生が幾つもミスをしたからだと言うことを知っています。2015年、羽生は外科手術の後に競技に復帰し、1位と2位の点差は僅かだったことを私達は知っています。2016年、私達は羽生が健康だと信じていました。実は彼以外のほとんどの選手のキャリアを終わらせるような怪我をしていたという事実を私達が知ったのはずっと後になってからでした。フェルナンデスの演技は素晴らしく、1位と2位の点差は大きかったにも拘わらず、私達は皆、ナンバーワンは羽生だということを知っていました。

最も重要な大会はオリンピックであることは、私達全員が同意するとことですが、オリンピックシーズン以外のシーズンで最も重要な大会は間違いなく世界選手権です。最初の世界選手権は1896年に開催されました。この大会より古い歴史を持つのは1891年に誕生した欧州選手権だけです。 グランプリファイナル(当時は名称が異なりましたが)は1995-96年シーズンに誕生しました。歴史について話すなら比較になりません。

でも難度ではどうでしょうか?
現在の女子の大会を見れば私が何を考えているか理解してもらえると思います。

ロシアの有力選手が何人出場しているでしょうか?
世界選手権ではロシア女子は3人しか出場出来ません。しかし、グランプリファイナルでは国籍は重要ではありませんから、2019年のファイナルではシニアとジュニア共に6人の選手がロシア人でした(シニア:アリョーナ・コストルナヤ、アンナ・シェルバコワ、アレクサンドラ・トゥルソワ、アリーザ・ザギトワ。ジュニア:カミラ・ワリエワ、ダリア・ウサチョワ、クセニア・シニツィナ、ヴィクトリア・ヴァシリエワ)。世界選手権でメダルのポテンシャルを持つ強力なスケーターの何人かは彼の国(この場合は彼女の国)に強力なスケーターが多く存在するために大会に出場出来ません。グランプリファイナルに出場するのは各カテゴリー6人の選手ですが、最強の選手達です。
従って、シーズン中、グランプリファイナルであるスケーターが勝ち、世界選手権で別の選手が勝った場合、世界選手権で勝った方が最強と断言出来ますか?
ここ数年、最も重要なスケーターが常に世界選手権で優勝しているわけではありません。パフォーマンスがあまりにも圧倒的だった場合、他のあらゆる事実を上回ることが出来るのです。

数十年間、バトンは当然のことながら男子フィギュアスケートのGOATと見なされていました。今、GOATは羽生です。次のオリンピックの結果がどうであれ、現在現役のスケーターで彼を超えられる望みのある人は誰もいません。

 

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羽生君はこれまで喘息、震災、度重なる怪我、手術と様々な試練を乗り越えてきましたが、今シーズンにおける彼の逆境も半端ではありません。

練習拠点に戻れず、コーチ無しで自主トレーニング、振付もリモートでほぼセルフ、練習出来るのは夜間の数時間だけ、試運転の試合もなく、ぶっつけ本番で全日本、しかも帯同コーチ無し。

誰よりも不利なこの状況で共に新プログラムで初公開だったショート、フリーをほぼノーミスで揃え(「ほぼ」と書いたのは羽生君にとってのノーミスの合格ラインが他の選手に比べて遥かに高く、そもそも「ノーミス」のコンセプトが他の選手とは別次元だからです)、文字通り圧勝する、これが如何に常軌を逸したことなのか・・・

大怪我の後、痛み止めを飲まなければならない状態で練習再開から僅か1か月で金メダルを獲得した平昌オリンピックもそうでしたが、今回の全日本でもあらゆる観点において他の選手達とは別次元なのだと改めて認識させられました。

Published by Nymphea(ニンフェア)

管理人/翻訳者(イタリア在住)。2011年四大陸チゴイネ落ち @pianetahanyu